このあとスタッフがおいしくいただきました

「ツイートしようと思ったけどやっぱやめた文章をただ書き留めておく場所」に、この冬リニューアル

新島旅行記~その1~

「永遠のひとつ」について語ること。つまりは新島旅行記だ。

 

太平洋のかなた、伊豆七島の一つ、新島に向かうことになったのは、ひとえに「永遠のひとつ」のMV撮影地であり、ISLANDコラボで田村ゆかりさんが東海汽船のアナウンスをしていたからで、これまでの生活で新島に思いを至らせたことなど寸時もない。
あるとすれば、地震速報に出てくるくらいか。一時期群発地震とかもあったしね。島は好きなんだけど。

 

まあ、要は離島に行きたい気分だったってだけなんですよ。


思い立ったらまずは電話。観光協会のホームページを見て、とりあえず料理の美味しそうなところから選ぶ。金額はどうやらカルテルで、観光協会に加盟してるとみんな同じ金額らしい。そうなるともう選ぶ基準もよくわからない。
とりあえずホームページの紹介で料理の美味しそうなところと、人の良さそうなおばあちゃんの写真が上がってる宿の名前と電話番号をメモって片っ端からかけていく。

宿に電話するには何時が良いのか。というのをいつも考える。
普通のホテルや民宿は、10時チェックアウトで部屋の清掃をして15時にはチェックイン時間になる。となると、午前中はまずNGで、お昼休憩を挟んだ昼下がりあたりにかけるのが、向こうにも余裕がある状態でベストだと思う。
私だって、電話してみたら受話器からムッとした声が聞こえてきたら悲しい。宿帳に「クソ忙しいときに電話かけてくんな」とかメモられたら、宿泊当日にまで嫌な顔で出迎えられるかもしれない。そう思うと、予約の電話だって少しでも「良いお客」を演じておきたいものだ。
実際にはそこまで考えてないけど。

現実的には、仕事中に電話できないので、お昼時ど真ん中に電話をかけることになる。

「あぁ?もしもし?」 電話の声は元気そうなおじいちゃん。年齢は計りかねるけど、たぶんご主人かしら。
ていうか、名乗らないのか。電話の向こうから名乗りがあるものと思っていたので、いきなりのことにかなり面食らう。ボールを投げようと思ってたところに、相手からいきなりボールを投げ込まれてしまった。最初に投げたはずのボールが手元に残っている。電話の前に組み立てていた想定問答は、とっちらかって頭の中から砂のようにこぼれていく。

「すいません、梅与さんですか?」
「あぁ、はいウチは梅与ですよ」
島人っぽいのんびりとした調子で、おじいちゃんがボールを投げてくる。こちらはもう、ボールを投げ返すだけで手一杯だ。とりあえず間違い電話じゃないことに一安心して、胸をなで下ろす。言葉のキャッチボール成功。

「あの~、今度の連休って部屋の空きはありませんかね?」
「あぁ?連休っていつの?」
「今度の14,15,16 なんですけどね」
なんとかボールを投げ返していくが、向こうのペースに呑まれている気がする。自意識過剰なだけだと思うけど。

「あ~、その日はダメだね。何ヶ月も前から埋まっちゃってるよ」

負けだった。いや、負けてないけど。
とにかく一軒目の宿は予約できなかった。なに、宿はたくさんあるんだ(観光協会のホームページを見てる限り)。梅与がダメでも次がある。
人の良さそうなおばあちゃんの写真は、他にもある。
メモったリストから電話をかけていく。どこにかけても空いてない。
メモったリストは全部ダメだったので、ヤケクソでホームページの上から順番に電話をかけていく。どこにかけても空いてない。
結果民宿全部ダメでした。

そりゃ海の日を含む三連休。学校も夏休みが始まって、宿がないのも当然…。
宿がなくてどうするよ…。

観光協会のホームページをポチポチと見る。民宿には一通り電話をかけてしまった。このままだと野宿。野宿は避けたいなぁ、どうしようかなぁ。
ポチポチしながら考える。ポチポチしながら考える。ポチポチしながら考える。

…キャンプ場あるじゃん。うん、あるのは知ってたんだ。でもその可能性は考えてなかった。暖かいお布団以外の寝る場所は、露ほどにも考えていなかった。文明人だから。

「…いけるんじゃね?」 向こう見ずな自分がささやく。
「いやいや、でもキャンプ道具とか全然持ってないし」冷静な自分が反論する。

すぐに新島のキャンプ場について検索を始める。
炊事道具がある。調味料もある。コンセントも用意されている。風呂は温泉の公衆浴場がある。夏なら寒さに凍えることもない。


「難易度低そうだし、確かにキャンプ道具は繰り返し使えるから、一度買いそろえておいてもいっか~」 冷静な自分が寝返った。

そんなわけで、新島で初キャンプに決定!…というのが、およそ出発一週間前までの話です。

聖地を巡礼するということ

「永遠のひとつ」について語るはずではなかったのか。

その前に、聖地を巡礼するってことについて書き留めておきたいので。

 

ゆかりんの聖地を巡礼するのって、割と賛否あるってのはわかってるんですよ。

ゆかりん自身は自分の「真似」をされることに否定的で、自分の好きな曲とかを王国民が安易に受容することについて相当に嫌っている…と思う。少なくともラジオやtiwtterで語られる印象としては。

そりゃ自分の行動を逐一チェックされたら気持ち悪いし、真似されるのも気持ち悪いよ。私服のブランドとか価格なんかチェックされた日にゃ、「服も自由に着れんのかい」って気分になるわ。

…なんか聖地巡礼を否定するような調子になってきたけど大丈夫なのか?

 

そうは言いつつも、聖地巡礼をするわけです。そこにゆかりんはいなくとも、あるいは物語の人物はいなくとも、舞台に赴くわけです。

 

それはなぜなのか。

聖地を巡礼するというのは、想いをトレースすることなのだと思う。

小説でも、映画でも、アニメでも、あるいは曲のMVでも、想いをかたちにした作品があって、それは場所に紐付いてる。ちゃんと背景がある。背景があって、物語の人物はそこで何を思ったのか、何を見たのか、何を感じたのか。作品の上で言葉として語られなかったことがそこにはある。聖地巡礼は、「物語の人物になりきる」とか通り一遍のことではなくて、作品の世界を享受し、咀嚼する、体験として理解することなんだと思うんだけど。

曲やMVには、温度や空気を想像させる力があるけれども、私はそれを自分の肌や耳で感じたかったんですよ。

 

私は好きな人のことは徹頭徹尾好きで、その人が何を思ったのか、何を感じたのか、その思考や感情をトレースしたいって思うんですけどね。これは人それぞれの「好き」という感情に対する感覚の違いが出るのかもしれない。

真似をされるのが嫌というのはもちろん理解しているけども、ゆかりんに見せつけるわけでもなし、新島に観光に行ったりするのは別によかろ?新島は景色やら温泉やら、本当にステキなところだよ。と思うんだけども。

 ゆかりんがきっかけで、アビスパ福岡の試合を見るようになって、サッカー面白いねって魅力に気づいてアビスパ応援したりすることもあるわけじゃないですか。

 

なんとなくまとまらない感じになってますが、この話は「永遠のひとつ」を語る上での前フリです。

推しがこの世を去るとき

神田松之丞がゲストの『伊集院光とらじおと』。「深夜ラジオ辞める」みたいな話が出たって聞いてずっと聴くのが怖いなと思ってたけど、実際聴いてみたら伊集院のラジオと落語に対するスタンスのマジな話が出てきてて、一瞬たりとも聞き逃せねぇよって感じだった。

 

奇しくもゆかりんが、永遠のひとつの発売を前にナタリーのインタビュー中で「辞める」ということについて語っている。

ただ……今でも「辞めてもいいかな」という気持ちはわりとありますね(笑)。好きなことができなくなったらやる意味もないと思うので、誰かに強制されるような状態になったらあっさり辞めると思います。

田村ゆかり「永遠のひとつ」インタビュー|今の自分に合った歌を - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

どちらも、自分のスタイルというものを持ち続けていて、それを維持できなくなるのであれば辞めてしまってもいい…というようなスタンスだ。

伊集院もゆかりんも、そうやって自分のスタイルを貫き通そうとしているから、ファンに対して誠実であろうとしているからこそ、そのあり方に共感し、その姿に憧れ、その進む先を見つめていたいと感じるのだ。

 

彼も、彼女も人の子で、いつかきっと我々の前を去って行く日が来るのだと思う。

 

伊集院はデブをこじらせて死ぬかもしれない。

この前にフォロワーさんの敬愛する噺家さんが亡くなったとき、伊集院が死んだら自分はどんな風に受け止めるだろう…?と考えることがあった。訃報に触れたとき、きっと自分は受け入れられないだろうと思う。月曜日になれば、またくだらないフリートークが聴けるはずだと信じて疑わないだろうと思う。それでもいても立ってもいられず、月曜日25時には赤坂に向かうだろうと思う。ラジオリスナーの流儀にしたがって。

 

ゆかりんが死ぬのはちょっと考えられないなぁ…。それでも結婚とかして引退するのだとしたら、そうでなくても自らの決断によって去って行くのだとしたら、温かく迎えてあげたいなと思う。ゆかりんの進む先は、晴れやかであってほしい。

 

どんな別れであっても、「らしく」あって欲しい。ただただそう願う。

サッカーの戦術はどうやって勉強したらいいのかね

GKってポジション自体が好きになりかけてる。けどそれって、戦術への理解が足りないから分かりの良いGKに魅力を感じてるだけなのかなぁって気もする。

サッカーについて真面目に勉強したいんだけど、どうやってくのがいいのかわかんないんだよなぁ。ホントは1つの試合について、全体の戦術を元にしてシチュエーションごとに解説してもらうのがいいと思うんだけど、DAZNのサッカー解説なんかそこまで細かく語ってくんないからなぁ。
というか、サッカーの解説って実況の補足説明くらいにしかなってない気がしてなぁ。

 

野球が一球ごとの静的なシチュエーションの繰り返しなのに対して、サッカーはシチュエーションが常に動的に変化するので、リアルタイムで説明しづらいし、状況を切り出しにくいという難しさがあるなぁとは思う。

シチュエーションベースでの解説ってのもそうだけど、もっとサッカーの基本的なことから勉強したいんだよなぁ。
つまり野球の場合は「ホームベースを踏む」ということが最終的な到達点であって、その前段階としていかに出塁し進塁するか、いかにバッティングするか、いかに配球を読むかっていう過程が理解できているんだけど、サッカーの場合はゴールに向かっていく前段階がよくわからない。まあボールを奪って前に進むってことくらいはわかるけど。

 

戦術とかの本を読めばいいのかな?

野球の戦術はパワプロで学んだみたいなところがあるけど、サッカーのゲームってそういう戦術を学ぶのに適してるのかな?

想いを、一枚に

自分らしい写真、これが私の写真、というものはなんだろうとか、仕事しながら考えてた。
最近、夜景撮りや星撮りなんか頻繁に出かけてるけど、あんなのは自分らしい写真だとは全然思っていなくて、ただ遠くに出かけたいっていう欲求に写真を撮るっていう実利をくっつけただけなので、写真を撮ることそのものの楽しさからはちょっと離れてる気がする。

写真の面白さって、撮影時に運の要素と技術や知識の要素が良い塩梅で混じり合って、一つの作品を作り出すところにあると思う。
天気が、街を歩く人の流れが、偶然のひらめきが、あるいは光量から導かれるカメラ設定が、培われた画角感によるレンズ選びが、そしてシャッターを切る瞬間にかける想いが、一瞬のきらめきを捉えるそういうものだと思う。

技術や知識は、努力によってある程度の領域まで達するけど、それだけじゃない。それが写真の面白さ。

 

閑話休題
写真を現像するときのテクニックとして、大きい写真から切り出す「トリミング」ってのがあるけど、どうにも自分はこれを好きになれない。
「あとでトリミングすればいい」という感覚は、その一瞬に向き合う情熱や覚悟をないがしろにしている。

大事なのは、被写体に向き合って、ベストな構図を引き当てる。俗っぽく言えば、「構図をこねくり回す」ということだと思う。

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構図をこねくり回すこと。
そして物言わぬ被写体が命を持ったかのようにかわいらしく、輝いて見える構図を探す。
それが私の写真。他の誰のものでもない一枚。

推しがプリキュアになったんですよ

田村ゆかりってどんなアニメに出てるの?」って聞かれたとき、相手が特に一般人であれば、その答えに一瞬迷ってしまうことが我々にはあったと思う。

 

NARUTOのテンテン?
まあ、一般向け作品ではあるよね。でも主役級かっていうとそうでもない。レギュラー出演するわけでもないしね。

魔法少女リリカルなのは高町なのは役。
主役も主役。なんならタイトルに入ってる。大看板を背負ったメインどころ。…なんだけどまあ、一般人には「なのは?なにそれ?」ってなもんだよね。
いや、なのはは悪くないんだけど、一般人の認識なんてそんなものでしょ。

 

今まで水樹奈々が、地上波のバラエティ番組で「声優でござい」みたいな顔して出てくるのに違和感があった。
食わず嫌い王なんかで「プリキュアやってました!」なんて出てきたりして、いやそりゃ役としてはやってたんだから間違いはないけど、「声優代表です」みたいな雰囲気出されると、テレビ見ながら「お前が?」みたいな顔してたと思う。

なんか奈々クラを敵に回してる気がする。水樹奈々は悪くない。そういう雰囲気に仕立てるテレビが悪いんだよ、たぶん。

 

ゆかりんは、プリキュアとは遠いところにあるのかなって思ってた。プリキュアのメインどころってわりかし若い声優がやるものってイメージがあったし、出るとしても敵のボス役とかかな?なんて勝手に思ってた。
だから、ネタバレでルールーがプリキュアになるらしいぞって情報が流れてきたときは、まだちょっと半信半疑だった。

 

田村ゆかりは演技の人だと思う。

ラジオで喋るときも、ステージ上で歌うときも、ゆかりんが我々に見せる姿というのは、我々が期待する田村ゆかりを演じてみせていて、それこそがゆかりんゆかり王国の姫たらしめているのだと思う。

ゆかりんが声優になるきっかけみたいな話として、小学校の頃に先生に朗読を褒められたこととか、中高演劇部であることとか、なにかと演技することに関するエピソードが挙げられる。
それは、水樹奈々が元演歌歌手として「歌う」ということにルーツがあるのに対して、田村ゆかりという人は「演ずる」ということにルーツがあるということなのだと思う。

だからこそ、ゆかりんが「プリキュアになった」ということ、演技者として認められ、国民的知名度のあるアニメで堂々たる演技をしていることを、祝福したいと思うのです。

 

 田村ゆかりプリキュアになったんですよ。

 

田村ゆかりという人が何をしたいのか、ずっとわからないでいた

SsLツアーが終わり、見事に落選したFCイベを経て、冬ライブという単語がいつの間にか宙に浮いてしまっていたあの頃。

公式HPの「重要なお知らせ」とやらに並ぶ文字列には、「ライブ中止→なんで?」「黒うさぎ終了→なんで?」「キングの専属契約終了→なんで?」という思いが奔流のように巡り、ただ「支えていきたい」という気持ちが、海岸で干上がった海藻のように、あるいは天ぷらの残りカスのように、最後に頭の中でうち捨てられるばかりだった。

2016.02.13
いつも支えてくれている皆さんへ。
突然の発表で驚かせてしまってごめんなさい。
そして、心配してくれてありがとうございます。
見るの怖いなぁ・・って思いながらも、ツイッターなど見させていただいています。

これは私が自分らしくあるために、たくさん悩んで、いっぱい考えて出した答えです。

ここで、新しい場所をお知らせ出来れば、
みなさんに安心していただけるのだと思います。
ですが、まだお知らせできない私のふがいなさを許して下さい。

いま思えば、これほどファンへの愛にあふれた言葉はない。「驚かせてしまったけど安心して欲しい」という率直な想いが伝わってくる。

そうした言葉を受け止めるには、きっと私の度量が足りなかった。

 

その年のFCイベント、ゆかりんの口から移籍については何も語られることがなかった。FCイベにライブパートがないことなど些末なことである。

けれども、移籍に関して何も触れられることがなかったことには落胆したし、憤ってもいた。

https://twitter.com/TKK8637F/status/801428446333145088https://t

 

witter.com/TKK8637F/status/801428446333145088私は、FFC大阪で、「事件」のあと"W:Wonder tale"の曲終わりにゆかりんがマイクを通さず届けたあの言葉を、2階最後列にも確かに届いたあの言葉を、信じられなくなっていた。

 

明けて2017年の4月1日、TLが喜びに満ちていた。

私は喜びと安堵ともに、自分の度量の小ささ、浅薄さををあらためて思い知ることになる。その一方で、これですべてが良い方向に向かう。そういう確信があった。

 

それでは、そうであるなら、王国民にとっての一連の「混乱」と「動揺」なんだっただろうか。

復帰直後のFCイベは落選した。それ自体はもう、どうでもよい。

問題は、あのとき抱いた悲しみを、涙を、不安を、怒りを、どうにも腹に据えかねていたことだった。

そうして2017年9月26日、Crescendo Carol初日を迎えることになる。

 

終わってみれば、ゆかり王国は何も変わっていなかった。

そこには、ステージ上できらびやかに輝くゆかりんと、ゆかりんに満身創痍で愛をむける王国民の姿があった。

1年以上の休眠期間を経て、いま再び、キングレコードを離脱してまで田村ゆかりという人が成し遂げようとしたことに思いを巡らせるならば、それはなんであるか。

 

それはきっと、「何も変えないこと」であったと思う。

キングレコードは一連の騒動の後、スタチャ消滅とともに、小松未可子を切り、喜多村英梨を切り、ゆいかおりを切った。その当時、ゆかりんの活動に何らかの方針変更が打診されたであろうことは想像に難くない。状況をみれば、ネガティブなものであったのだろう。

 

田村ゆかりという人はきっと、守ろうとしたのではないか。

自らが遂げたい想いを、成したい未来を、そしてゆかり王国と王国民を。

 

本当のことは何もわからない。

これからも、ありのままが語られることなど、ないのだと思う。

それでもなお、田村ゆかりという人が抱く想いに添い遂げ、歩むその先を見ていきたい。

 

支える、とは、そういうことなのだと思うから。

 

Crescendo Carolの後、なんとなく考えてたことをようやく文章にした。いや、本当はYahooメールの下書きでメモってたんだけど全部消えた。Yahooメール絶対ゆるさんわ。まだ普通に使ってるけど。

「推す」とはなにか、「支える」とはなんなのか

AKBなんちゃらの総選挙やなんかで、推しが苦しみながら目標を達成していく姿を見てカタルシスを得るスタンスというのは残酷ゲームのそれであるなぁと思うのだけれど、自分も推しに対して同じように物語というかカタルシスを求めてしまうようなところがある。
言うなればそれは推しの苦悩をベースにしているもので、果たしてそれは「推し」ているのか、純粋な「応援」と言えるのかと考えることがある。

 

もちろん自分は、田村ゆかりが夢を果たし、目標を遂げ、輝き続けていてほしいと、本心から願っているのだけれど。
田村ゆかりさんに幸あれかし。」と、純粋に思う。

 

閑話休題
田村ゆかりという人は、ファンが求めるもの、期待するものを敏感に感じ取って、その通りに演じてみせるところがあって、推す側としてはそこに「ファン愛」みたいなものを感じたりするのだけれど、その期待というのは、裏腹に田村ゆかりという人を縛り付けていて、じわじわと苦しめてしまっているんじゃないかと、そんな風に思うことがある。
我々は田村ゆかりにとって「呪い」なのではないか、と思ったりする。

杞憂かもだけど。

田村ゆかりの前に田村ゆかりなく、田村ゆかりの後に田村ゆかりなし。

田村ゆかりさんが成熟しつつも単純な年齢的イメージから離れた存在してるの、本人が年齢的なものをメタ化してしまうパワーを持っていることに起因しているように思う。ある種のキャラクター性というかそんなの。
現在の、そして過去のアイドルに、そういったパワーを持った人はいたのだろうか。松田聖子というレジェンドは、格別であるとしても。

そういう意味だと、受容する側もそういうファンタジーというかプロレスみたいなものをよしとして受け入れる必要があって、それが広く受けてられてるのは、オタクゆえであるのかもしれない。

いわゆる「生モノ」のパブリシティ権の問題について思うこと

パブリシティ権 - Wikipedia

 

自分のねんどろパペの写真集も含め、権利が無限に許容されているとは思っていないけども、あくまでファンとしての延長でやってることであって、不当に利益を得たり公式に盾突いてまでというつもりはないので、同じファンの立場からその行為は不正不当ですって非難するのは勘弁して欲しいなと思うのです(140字)

そのあたり実際のところは公式の胸三寸というところもあるので、同人界隈にありがちな「愛があれば許される」みたいな風潮もまた違うよなぁとは思うわけですが。

「そういうの嫌い」って言われれば、そりゃ嫌いに思うんなら仕方ないけども。
ある種の懸念や嫌悪が先に立ってそれを非難するというのは、自警的、あるいは自治活動的なところがあって、正義を振りかざして心の安寧を得たりするところがあるように思うけども、拳を振り上げられる方としては萎縮してしまうし、オナニーはよそでやってという気分。