このあとスタッフがおいしくいただきました

だめにんげんさんの墓標です。

「null」の話

愛してるに似ていた さようならみたいな
ありがとうに似ていた ごめんねみたいな

さようならに似ていた 愛してるみたいな
ごめんねに似ていた ありがとうみたいな

象ってつくる

象って つくる途中に
落としていたとしてきた 言

「象ってつくる」

= 想いのかたちを象る(心のかたちをあらわす)ということ

それによってなにが起こったか?

→「言(言いたいこと)」は落としていたとしてきた


すなわち、言葉として「象ってつくる」つもりが、「落としていた」ことによって

「言いたいことは "じゃない"」
「"言いたい言葉" じゃない」

に至った

⇒「象ってつくる」はずが、言いたい言葉じゃなくて、「透明な本当」になってしまった。


模ってつくる

模ってつくると 宙に
音していた 賭してきた事

「模ってつくる」

= 想いのありようを模る(心のありようをふるまう)ということ

それによってなにが起こったか?

→「賭してきたこと」が宙に音をなしてあらわれている


想いをふるまいとしてあらわしても、それも言葉にはならない

「言いたいこと わかんない」
「言いたい 言葉がない」

「本当」とはなにか(問う 名ない本当)

とまあ、ここまでが構造の話です。

字面を解釈すれば、結局「名ない本当」というのは、表層の一歩先にあるもの、言葉にならないもの、それこそが「null」なのだと。
でもそれではまるで、トートロジー。堂々巡りじゃないですか。


「null」そのものは言葉にならなかったわけですが、「null」が歌として、つまり表現としてあるということは、その意味のありかたを定めるのは、結局「表現を受け手がどう感じるか」なのかなと思っています。


田村ゆかりさんの「null」の歌い方の特徴としては、一つ「イノセント(無垢)さ」のように、私は感じました。

ナタリーさんのインタビューでは、「null」の歌い方について次のように話しています。

私も日本語の複雑さが好きなんですよ。前後にくっついた言葉や受け取る側の感覚で解釈がいくらでも変わるのが好きで。今回はレコーディングのとき、最終的にけっこうキーを上げたんですよ。2音近く上げたのかな? 元はもう少し暗い印象で、そっちのほうがカッコいいんじゃないかという声もあったんですけど、私はこの言葉遊びが面白いなと思ったし、かわいい方向に持っていったほうがよくなるんじゃないかなって。歌い方もほかの曲よりは少しかわいらしくしました。

田村ゆかりさんの表現力であれば、
「さようなら」と「愛してる」も、
「ごめんね」と「ありがとう」も、
もっと意味を寄せることもできたんじゃないかと思うんですよね。


でも、
「さようなら」と「愛してる」の間には、
「ごめんね」と「ありがとう」の間には、
言葉にならない「なにか」があって、その「なにか」について、田村ゆかりさんはあえて意味を定めることをしなかったのだと思います。

このツアーにおいて、田村ゆかりさんがこの曲をある種の「イノセント(無垢)さ」をもって歌ったというのは、「どちらでも取れるように歌った」ということなのだと思うのです。


なればこそ、

「さようなら」
「愛してる」
「ごめんね」
「ありがとう」

それぞれの言葉の意味というのは、表現としては「null」であるけれども、その「null」であったものがそれぞれの受け手に届いてから生じた意味こそが「本当」なのだと思うのです。

そんなわけで、「null」は多様な解釈が生じることが、その本質なのかなと言う気がします。

機会があれば、他の人の解釈も聞いてみたいですね~。
まあツアー終わっちゃいましたけど。