この記事は、ゆかりっくAdvent Calendar14日目のエントリーです。
昨日の13日目は、すなみさん の「田村ゆかり ファンクラブMellow Pretty会員規約を読んでみよう~ポイント解説~」でした。
t.co
会員規約を読み込んでいる人はなかなかいないので、法律的観点からの解釈・解説というのはおもしろいですね!
私も前から気になってたんですが、会員規約の最後に「附則」ってあるじゃないですか。あそこって本来は、施行期日とか改定期日とか入れるべきところだと思うんですよね。
この規約自体はおそらくテンプレが存在して 、そこにアーティスト名やFC名を入れ込んだものと思うんですが、附則がないにもかかわらず「附則」ってテンプレ部分だけ存在するの、なんか気持ち悪いですよ。
※純烈さんのFCも、めろぷりと同じFanplusが運営なんですね
なのでこの会員規約は、【第17条】をうけて施行期日を附則に明記する方がいいんじゃないかと思います。まあ、実際の争いが生じなければ、期日を記載せずしらばっくれても、効力上そこまでは問題にならない気はしますけどね。
めろぷりさんは「再度会員規約をご確認くださいますよう」とおっしゃっているので、めろぷりさんも「再度会員規約をご確認くださ」った方がいいんじゃないでしょうか!
とまあ、そんな話は横に置いといていいんですよ。
Honey Bunnyツアーが終わって1ヶ月半が経ちました
アドカレ皆勤で今年で6回目になりましたが、今回は今年発売のアルバム「I Love itI♡」の収録曲である、「Paradoxx.」の話をしたいと思います 。
ツアー前に発売されたアルバム「I Love it」の曲は、どれもライブで盛り上がる曲だと思うんですが、Paradoxx.って詞も曲もちょっと異色じゃないですか。
発売直後に歌詞カードを見たとき、「これはちょっとエグいなぁ」とショックを受けたのと、ツアー中もこの曲とどう向き合っていくべきか、ずっと悩んでいたんですよ。
その「まなざし」は加害する
「まなざし」っていう言葉からはどういうイメージを抱きますか?
「まなざし」という言葉からは、ある種「あたたかみ」みたいなものをイメージするかもしれません。
しかし、西洋哲学で「まなざし」を受けるということは、 「見る者」と「見られる者」の関係性において、「見る」側が「見られる」側に規律や価値基準を押しつけるもの として理解されます。
例えばあなたは職場で、おもむろに全裸になってみたくなったとしましょう。あなたは生まれたままの姿で、自由になってみたいのです。
しかしその衝動は許されることがありません。なぜならあなたは、「全裸になりたい!」という衝動を抱いた直後、目の前の上司や同僚の視線があることを「意識する」ことで、「全裸になることは恥ずかしい」であるとか、「全裸になることは秩序を乱すことだ」という考えを「自制心」として内面から生み出してしまうのです。
「まなざし」と規律権力
フランスの哲学者であるM.フーコー は、このはたらきを監獄(パノプティコン )の中に見出しました。
近代に理想型とされた監獄は、その構造の中心位置に看守塔が置かれ、その周囲に囚人房がとりまくように配置されるものでした。これは看守が囚人を一望的に監視することを意図したものです。これによって囚人は、看守の「まなざし」を意識することで、自らを規律して行動するようになるのです。一方でこの監獄は、囚人の側からは、看守が自身を見ているかどうかはわからないよう、巧妙に配置されています。この見られる側が「まなざし」を意識するという構造は、いったいなにを生み出すのでしょうか?
見られる側の囚人は、「まなざし」を意識することによって、その「まなざし」が現にその場に存在しないのだとしても、自らのふるまいを律するように行動するのです。
つまり、「まなざし」というものは、「まなざされる」側に内面化され規律する、ある種の権力性(つまりパワーみたいなもの)を有している というのが、M.フーコー の議論でした。
私はいつも、心配になるのです。
私がステージに向けるこのまなざしは、田村ゆかり さんの自由を奪っているのではないかと。
「この不安を見透かされた」
誰にも見せたくない君のその微笑み
腕の中にしっかり閉じ込めたくても
それは自由奪うようで
王国民の総体の中の一つである私のこのまなざしは、田村ゆかり さんのふるまいの一つ一つを規律するパワーを持っているのではないか。
私は「I love it」のアルバムを手にして歌詞カードを読んだとき、「疑問並べいつも悩んでる 僕の不安」が見透かされ、暴かれてしまったような思いを抱いたのです。
例えば、王国民を心配させまいとして、ゆかりさんが気丈にふるまうとき、我々が無理をさせてしまってるんじゃないか…とか、やっぱり心配になってしまったりするときがあります。
例えば、Twitter に流れてきた感想があったとして、ゆかりさんがそれを知ってか知らずかわからないにせよ、客席へのレスが変わったようなとき、やはりこのまなざしがふるまいを変えてしまったのではないかと心配になるのです。
さりとて田村ゆかり さんは、自立した一人の女性ですから、その選択は誰に強制されるでもなく、主体的になされているといえます。
だからこの心配は、きっと杞憂なのです。
杞の国の空は、落ちてくることはないのです。
さりとて「まなざし」というものに、そういった自由を奪うようなある種の「パワー」があるのは隠せないし、自分の内面を暴露されたように感じたから、Paradoxx.の歌詞は「エグい」というように感じてしまったんですよね。
「絶対アイドル辞めないで」
=LOVE というアイドルグループの「絶対アイドル辞めないで」って曲をご存じですか?
タイトルから想像されるとおり、この曲はファンからアイドルに向けての思いが描かれた歌です。そこには、アイドルへの思い・共通体験のようなものにが見えるように思います。
VIDEO www.youtube.com
=LOVE 絶対アイドル辞めないで 歌詞 - 歌ネット
キミの好きに合わせたんだ髪の色
私は髪の色を染めたことはないけれど、例えば充電用のUSBケーブルとかスマホ の本体色とか、そういった身の回りの持ち物をなにげなくピンク色にしている人、少なくないと思います 。
優しい顔も真面目顔もすべて知ってるわたしが言う
←すべて知ってるってそんなわけない
でも、そういうある種の勘違いあるじゃないですか。
「僕らはいつでもわかってる!」ってコールみたいなやつ。
実際我々は、ゆかりさんのいろんな表情を見てきたとは思うんですよね 。
その夢がアイドルじゃなくても覚悟はしてるから
いつまで続けられるかはわからないというようなことをご本人が言うように、バースデーイベがあってツアーがあってFCイベがあってという今の態勢が、いつまで続いていくかはわからないと思うんですよね。
いつか「辞めます」ということになるのかもしれない。
それはご本人の意思がどうあるにせよという部分もありますが。
どちらにせよ、その在り方はご本人の思うままであって欲しいという願い のようなものがあります。
一列でも前で感じたい
そりゃ私だって最前引きたい ですよ。(身も蓋もない)
やっぱり前の方で近い距離で観れるって、視覚にせよ聴覚にせよ(嗅覚もある?にせよ)、情報の解像度が全然違うんですよね。
今日の歌い方 なんか好きだなぁ
「今日の『you』」「今日の『嘘』」なんて話がありますが、ツアーを何公演も参加しちゃう人って、(自分も含め)「今日の歌い方は感情が入っててよかったなぁ」とか「今日はせつない表情が泣けた…」とか、そういうしぐさや一挙手一投足に魅力を感じてしまっている のですよね。
星のいない空 それが当たり前で 暗い道に目が慣れずに 踏み出すのも怖かった そんな時 やっと見えた光
「日々が苦しく辛いとき、ゆかりん の曲を聴いて救われた」
そういう体験をしてる人はいるんじゃないかと思います。
私にとってもコロナ禍の辛い時期に、「Candy tuft」や「あいことば。」の曲が支えになってたのは大きいんですよね。
今でも「Exactly」や「La La Love call」なんか聞くと、あの頃の記憶がオーバーラップします。
別に今だって、仕事や学校が明るく楽しいというわけではないけれど、田村ゆかり さんの存在が、日々を明るく照らしてくれて、だからこそ歩んでいけるというところはあるんですよね。
あなたがいてくれるから 私は笑顔でいます 元気です
ゆかりさんは、夜空句輝く眩しい星というより、足もとをやさしく照らすお月さま だなぁと思います。
これは報われないおとぎ話 恋よりもずっと好きだ 魔法よどうか解けないままで
楽しかったライブの終演後、あるいは打ち上げが終わった後、「いつまでもこんな日が続いたらいいなぁ」という思いに駆られることがあります。
田村ゆかり さんに対して、「絶対アイドル辞めないで」と思ったことはないけれども、これからいつかステージを去るそのときが来たら、やっぱり寂しさを感じることになると思うんですよ。
その日は10年後かもしれません。
あるいは明日なのかもしれません。
それでも、バースデーイベやツアーでまた逢える日を期待せずにはいられないわけで、「絶対」ではないにせよ、この日々がまだまだ続くことを信じてしまっている んですよね。それは程度の差はあれ、ステージの上で輝き続けていてほしい、「アイドルを辞めないでいてほしい」という願望と地続き であるように思います。
でもそれは、「報われないおとぎ話」 なんですよ。
私の心にある「好き」という思いがどれだけあったとしても、楽しい日々がずっと続けばいいと思っていたとしても、それは私のエゴであって、田村ゆかり さんは田村ゆかり さんの人生として、いつかきっとステージを降りる日が来るわけです。
そういう「好き」と、自分のエゴとともにある「不安」 というのは、アイドルに対して抱く普遍的感情なのかなと思います。
「Paradoxx.」とはなんなのか
話を戻しますが、それでは Paradoxx. という曲は、結局なんだったのでしょう。
結局それは端的にいえば、
「好き」と「不安」
そうした「心の中にあらわれる矛盾した感情」 なんだと思います。
これまで私は、歌詞であるとかインタビューの言葉の中から、田村ゆかり さんがいまなにを考えているのか、思っているのか、解釈しようとしてきました。
でもそれは、想いが「言葉」として、かたちを変えてあらわれたものであって、それもまた解釈というフィルタを通している以上、どこまで「本当」に迫っているのかはわかりません。
所詮は「夢」や「妄想」に過ぎないのかもしれません。
ライブ中に田村ゆかり さんが見せる様々な表情、例えば今ツアーでは「嘘」や「you」であるとか「逆蜻蛉」、そういった複雑な表情やさみしい表現。
そうしたミステリアスな表情に、魅力とともに深い沼のような「底知れなさ」を感じてしまうのです。
そして、この「まなざし」が自由を奪うということ。
「絶対アイドル辞めないで」にもあったような、「好き」だからこそ生まれる「不安」、その葛藤 。
この2曲は、一方は「作詞:松井五郎 」、一方は「作詞:指原莉乃 」であって、それぞれの世界はまったく交差しないように思われますが、アイドルに抱く「好き」と「不安」、そして矛盾への「葛藤」という意味では、同じテーマをして別々の言葉で紡がれた曲 なんじゃないでしょうか。
それは、相手がただ恋愛対象としてあるからではなく、きっと手の届くことがないことを確認せざるを得ない、ステージの上で遠く光り輝く「アイドル」だから、より深く強く感じてしまうように思うのです。
この気持ちはどこに向かうのか
田村ゆかり さんは、アイドルです。
これに異議を申し立てる人はいないでしょう。
アイドルという言葉は、日本においては1960年代に活躍したシルヴィ・バルタン の「アイドルを探せ」という曲のタイトルを端緒として、文化の広がりを見せていきました。
その中でファンからアイドルへの感情というものは、長らく異性愛 的な「恋愛感情」を前提として理解されていました。
かつて存在した「アイドル誌 」(アイドルを取り扱った雑誌のこと)は、雑誌ごとに取り扱う対象が「男性アイドル/女性アイドル」と明確に分かれており、「Myojo」「POTATO」などジャニーズを主体とした男性アイドル誌 は10代女性をターゲットとして、「BOMB」「Wink Up 」などの女性アイドル誌 は10代男性をターゲットとして制作されていました。
誌面の内容ついていえば、男性向け女性アイドル誌 では「性行為」や「性体験」について興味を向けたものに関心が向けられ、女性向け男性アイドル誌 では「メンバー間のホモソーシャル 的空間」に関心が向けられていたものでした。
そのような誌面構成が、良いとか悪いとかいう評価をするものではありません。アイドルを性的に消費したりすること、性的に「まなざす」ことも、それ自体が悪いことではありません。
しかしそのような「まなざし」を向けることを表沙汰にするというのが、無限に許されるということはない わけです。
端的にいえば、アイドルを性的に消費しているとして、内心としてそういうものがあったり、見えないところでそういう行為を行っていたりしたとしても、それが本人の目の前においては、当然の配慮が必要になるじゃないですか。
その一方で、21世紀に入りWEBメディアが主役となっていく中で、アイドル誌 は部数を減らしていき、そのような光景が「前提」であるとか「共通理解」ではなくなったように思います。
遡れば80年代から、その萌芽はあったのです。
松田聖子 さんは、当時「ぶりっ子」としての評価はあったものの、それこそ田村ゆかり さんに代表されるように、女性の憧れの対象でもありますし、小泉今日子 さんはアイドルとしては型破りな存在として、男性から語られるだけではないアイドル像というものを示してきました。
時は流れ、ももいろクローバーZ であるとかPerfume であるとか、今のアイドルというのは、異性愛 主義と疑似恋愛を前提としてはいないものとなりました。
田村ゆかり さんもまた、現場では女性ファンが多く見られ、その目線はかつてあったアイドルの目線よりも多様であると言えます。
それでも、私はまた不安 になるのです。
この目線(まなざし)は相手を傷つけるものなのではないか と。
それでも、「まなざし」むける私
それではこの「まなざし」は、ただひたすら自由を奪うばかりなのでしょうか。
この記事の最初、M.フーコー のパノプティコン に関する議論を引いて、「まなざし」の権力性について言及しました。権力性を持つということはすなわち、「パワー」と持っているということ でもあります。
今ツアーの宇都宮公演。ツアーも後半で有明 公演を経てコールが仕上がりきった我らの声を聞いて、田村ゆかり さんがMCで、「みんなの声のおかげで気持ちよく歌うことができた」 と語ってくれたことがありました。
AFTの横浜アリーナ 千秋楽、声の出せなかったツアーの終わりに、「みんなの声が聞きたい」 と語ってくれました。
この「まなざし」が届くこと、声にのせて想いを伝えるということは、相手を勇気づけること でもあります。
この「まなざし」が傷つけることがあるかもしれないけど
この「まなざし」が勇気づけることがあるのかもしれない
演者を勇気づけるのも、この「まなざし」である
そう言えると思うのです。
パワーとはすなわち権力性でもありますが、エンパワーメントするということは、勇気づけること であるわけです。
キュアアムールも歌ってたじゃないですか、「大好き∞無限POWER」で歌ってたじゃないですか、「大好き!大好き!伝えよう」って。その言葉が「勇気」とか「奇跡」とか、無限大のものを生み出すんですよ。
キュアマシェリ(田村奈央)、キュアアムール(田村ゆかり) 大好き∞無限POWER 歌詞 - 歌ネット
田村ゆかり さんはアイドルですが、私の田村ゆかり さんへの想いは、疑似恋愛のようなものとはちょっと違うんじゃないかと思っています。
「舞台はみんなでつくるもの」という言葉があります。
それは、まさにゆかり王国 のあり方を示しているように思います。
AFTの千秋楽でゆかりん が語っていた、「田村ゆかり システムの共犯者」 というような、我々の関係性はそういうものであると思うんですよね。
この関係は、婚姻のように法律的保障があるわけではありません。
血縁的な絶対性があるわけではないので、いつでも「辞める」という選択肢も用意されています。
ある意味で無責任な関係です。
でも、いつでも辞められるからこそ、いまここで気持ちを向けているということは、「ゆかりと一緒にいたいんだ」「この手を離さない」という、明確な意思に裏付けられた関係 なのだ とも言えます。
その「まなざし」って、「愛」 って言っても差しつかえないんじゃないかと思います。
それは、ただ加害するでもなく、
異性愛 的な疑似恋愛なのでもなく、
言うなれば
一回性の人生を同じ世界でともに生きる「伴走者」
なんじゃないかと、
そういうあり方でいたいと、
私は思うのです。
さ~て、次回の「ゆかりっくAdvent Calendar 2024」は?
次回は ようかんまんさん の「Honey bunnyツアーでつくったものたち」 です。
ツアー中いろんなものTwitter に上げていて、うまいなぁと思っていたんですが、そのスキルはお仕事のなせるワザだったりするんでしょうか?
どんなことを考えて作ってるのかなと、興味津々です!
それではみなさま、チャオ!