このあとスタッフがおいしくいただきました

だめにんげんさんの墓標です。

「田村ゆかり」は電気羊の夢を見るか?

しかし、ほんとうは生きている。生物学的にだ。
きみを作りあげてるのは人工動物みたいなトランジスター回路じゃない。きみは有機的な生き物だ。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 P.K.ディック・著/浅倉久志・訳/早川書房

この記事は、「ゆかりっくAdvent Calendar 2021」5日目(12/5) の記事です。
昨日はこばんさんの「Airy-Fairy Twintail~俺の地元公演~」でした。
横浜出身の私はあまり地元を感じることが少ないので、記事を読んでうらやましいな~と思いました。


横浜アリーナで行われたツアー千秋楽から、もう2ヶ月が経ってしまいました。
時の流れは速いものですね。

横アリでアコステラスト曲の「嘘」を歌い終えたゆかりさんが、まるで想いを至らせるように振り返った後、ステージに向かって歩いていくさまは、ストーリーが始まる瞬間のようでもあり、まるで「映像の中に入っていってしまった」ようでしたね。
横アリの広いステージを使った演出に、ツアー中のホール公演での構成に慣れきってしまっていた私は、思わず「やられた…!」と天を仰いでしまいました。

思えば今ツアーの映像パートは、前後の曲とのつながり、セットリストにおける「流れ」をかなり意識したものだったんじゃないでしょうか。
映像パート明けの「Pink Pygmalion」でも、曲始まりの無表情から曲中に表情が作られていく様は、歌詞そのものとともに映像のドールが表情豊かになっていく様子を引き継いだものであるように思います。

「Pink Pygmalion」と「田村ゆかり・像」

ツアー直前にアルバムとして発売された「あいことば。」に収録の「Pink Pygmalion」。あらためてこの曲は、どのようなものであったのでしょうか。


ナタリーさんのインタビューで「アンドロイドの恋もの」という受け答えがあるように、この曲の歌詞はゆかりさんがアンドロイドとして思い人に恋するような言葉が並びます。
そもそも Pygmalion というのは、理想の女性を彫刻して人間になることを願ったギリシア神話のピュグマリオーンのことです。
歌詞中の「指先 まなざし あなたの好みにOK」であるとか、「あどけないLipも Customize」「Personal Sizeになってく」いった表現は、彫像であるガラテアがピュグマリオーンの願うままの姿に象られていくさまを示しているように思われます。


また、この曲は「あいことば。」の中で唯一MVが作られたわけですが、MVについては次のようにも語られています。

──次の「それは奇跡なんかじゃない」も歌詞に重さはあるけど、サウンドはすごく軽やかで。この曲もシングルカットしたりMVを作るのにもよさそうなキャッチーさを感じました。

そうしてもよかったんですけど、やっぱり今までのようなパブリック田村ゆかりの派手さやかわいらしさは足りないかなーという感じがして。


ここでは「それは奇跡なんかじゃない」がMVの選外となった理由が語られていますが、逆説的にMVに選ばれた「Pink Pygmalion」はパブリックな田村ゆかりの象徴的な曲であるといえます。
すなわち、田村ゆかりさんがイメージするパブリックな田村ゆかり像」は、「派手さやかわいらしさ」の象徴として「Pink Pygmalion」の歌詞やMV映像にあらわれているわけです。


ツアー中、映像パート前に「映像の中に入っていってしまった」ゆかりさん、そして映像パート明けに「Pink Pygmalion」で「無表情から表情豊かに変化していく」ゆかりさんは、そういったパブリックに象られた田村ゆかり・像」の人形的側面との接続だったのではないでしょうか。


さて、あえてここで田村ゆかり・像」という書き方をしましたが、像とはまさに「像=イメージ」であり、パブリック性(自分のものではない・他人からまなざされるもの)そのものでもあります。
パブリック(public) の語源はラテン語の "populus" であり、英語ではすなわち "people" となるわけですが、それでは「みんな(people) の田村ゆかりとはどういったものでしょうか。

笑う笑うドール みんなのアイドル

遡ってみると、「エキセントリック・ラヴァー」もまた自己言及的な曲です。

笑う笑うドール みんなのアイドル
愛してるわみんな Do you love me?

キング時代の映像作品の売り文句に「声優界NO.1アイドル田村ゆかり」などとあるように、パブリックな「田村ゆかり像」とは、言い換えれば「アイドル」的なものであることは論をまたないことであり、「エキセントリック・ラヴァー」で歌われる自己像もまた、歌詞の言葉どおりアイドル的なものであるといえます。
歌詞をそのまま重ねてしまうのは躊躇がありますが、田村ゆかりさんが自覚的に抱く田村ゆかり・像」もまた、アイドル的なものであるといって差しつかえないでしょう。


アイドルという存在はまた、その一身に多くの人からの愛を受けると同時に多くの人に愛を与える、自己犠牲的な存在でもあります。

わからずやで 浮気なキミを ひきつけるため
泣いちゃうときもカメラの前で笑う 今日もキミのために

ちょっと正確な言葉は思い出せないんですが、田村ゆかりさんはかつて、「悲しいことがあってもステージに立ったときには笑顔で笑っていて、まるで自分がロボットのように思えた」という趣旨のことを語っていたことがありました。
「ロボット」というのは自身の感情と表情が切り離されていることに対する比喩的表現ですが、田村ゆかりさんは自身のアイドル性が感情と乖離したロボット的なものであることにも自覚的といえるでしょう。

この「ロボット」が感情との乖離を示すものであると理解するならば、映像のモチーフとしてあらわれた「ドール」や「Pink Pygmalion」における「アンドロイド」との共通性が見えてきます。
そこで時を経て、「エキセントリック・ラヴァー」と「Pink Pygmalion」の間には共通性を見いだせるわけです。


「エキセントリック・ラヴァー」はキングレコード時代の曲であり、「Pink Pygmalion」はCana aria移籍後の曲でもあります。
2つの曲が共通のモチーフをもつ一方で、差異として際立ってくるものはなんでしょうか。

「エキセントリック・ラヴァー」の "キミ" から「Pink Pygmalion」の "Pygmalion" へ


「エキセントリック・ラヴァー」と「Pink Pygmalion」、モチーフの共通性はあっても、やっぱり雰囲気が違います。
それが如実に表れているのは、曲中に歌われる相手の姿、すなわち「私と "キミ"」「アンドロイドと "Pygmalion"」それぞれの関係性でしょう。
いずれも "キミ" や "Pygmalion" への犠牲的な想いがありますが、それぞれニュアンスが少し違ってきます。

「エキセントリック・ラヴァー」での「私と "キミ"」の関係性は、次のように歌われます。

ドーリーフェイスも クールビューティー
抜かりなくキミを 狙ってるハンターよ

曖昧なキミも いじわるなキミも
キライと言う前に パクッと食べちゃった

この歌詞からは、私が "キミ" に対して一筋縄ではいかない、いわゆる小悪魔であるとか肉食的な自意識を持っているようにうかがえます。

一方「Pink Pygmalion」では、思い人である "Pygmalion" との関係が次のように変化するのです。

Many many 絶対好きになって
捨てたりなんかしないで (darlin)
あなたに従順で (hoppin')
ずっとさみしい (lovin')
Pygmailon

「Pink Pygmalion」では、アンドロイドたる彼女は "あなたに従順" であることが明らかに歌われています。

覗き込んだファインダー 気づいてマイ・ラヴ
レンズ越しの情事 スキャンダラス

本当の私を見つけて キミのその眼で


そもそもピュグマリオーンは彼自身の理想像を女性としてかたどっているわけですから、歌詞中の従順さも当然であるように思えます。「エキセントリック・ラヴァー」で訴えかけるように "本当の私" が歌われているのとは大きな違いです。


ここで、田村ゆかりさんは "本当の私" を滅してキミの意のままの存在になったのだ…ということを言いたいのではありません。
たぶん、どっちも田村ゆかりさんなのです。

「Pink Pygmalion」で見えてくるパブリックな田村ゆかり・像」も、「エキセントリック・ラヴァー」でカメラの先にいる "本当の私" も、どれもまごうことなく田村ゆかりさんであって、彼女自身が一枚の写真のように存在するのではないのです。

あなたが想う「田村ゆかり」を愛せ

ドールではなく、アンドロイドではなく、常に変わり続ける人間だからこそ、田村ゆかりさんはたくさんの魅力を備えているのです。
それはあたかも、ダイヤモンドがたくさんの面でカットされることできらめきをもつように、たくさんの王国民がそれぞれの想いを語るからこそ、ゆかりんは世界一輝いているんだと思います。

そう考えると、「Pink Pygmalion」のMVでゆかりさんがミラーの前で歌ってるのも意味ありげに見えてきますが…。まあそこまでは佐々木Pも考えてないかw


さて、こちら5日目の記事となりました「ゆかりっくAdvent Calendar 2021」。
昨年のアドカレではTCツアー中の忘れものについて、一昨年は「未来の果てにEscort」と「逢うたびキミを好きになる」について書いているので、良かったらそちらもご覧になっていってください。
tkk8637f.hatenablog.com
tkk8637f.hatenablog.com


6日目の明日は、つばきくんの「田村ゆかりの "嘘" について」です。

ツアー中、曲中の表情について話題に上ることが多かったように思いますが、なにせ文脈の外のことについてのことなので、私には語るのが難しいなぁと思っていました。
"嘘" についての語りに注目です。


それでは皆さま、再見!

ゆかりんと私たちの「あいことば。」

この記事は、いつもの駅前のファミレスで書いています。
私が座っているこのファミレスも、ここ一年でジョナサンから価格帯を下げたガストに看板を架けかえました。

そうです、コロナ禍ってやつです。

思えば2020年2月26日のあのバースデーイベント前日からずっと、急転直下の「イベント中止要請」に始まりツアーの延期と、コロナ禍という抗いがたい存在に組み伏せられてきました。


中止された2020年のバースデーイベからちょうど1年の2021年2月27日。オンライン配信というかたちで開催された2021年のバースデーイベントで、「Exactly」は初お目見えすることになります。

11月にイベントやって、なんかいろいろ思うところがあって
お客さんの言葉だったり、それは参加した人参加できなかった人、いろんな意見があったんですけど
それをみて感じた気持ちを松井さんにお伝えして、歌詞を書いてもらった曲です

パシフィコ横浜で、さらに定員の半分に制限された席数となったことを考えれば、このFCイベントはアクティブなFC会員数からしても参加できなかった人の方が多かったんじゃないかと思います。参加できた人参加できなかった人、参加しなかった人。当時のTLには、様々な感情が交錯していました。
リリパがあって、その前にはハワイファンミがありましたけど、ツアーの延期もあって、会えていない人はもう一年以上はゆかりんに会えていなかったんですよね。

FCイベントでゆかりんがステージから見た笑顔。
その向こうにも王国民のたくさんの想いがあって、ゆかりんはその声なき声を感じ取っていたんでしょう。
あのころ抱いていた想いは、「La La Love call」の夢や願いのようなものだったように思います。

Yesと言って
二人はまた逢えるかな
未来は いつも心にある

Yesと言って
微笑みは消えないから
この夢 ねぇ叶えよう


笑顔もその向こうにある涙も、ゆかりんが受け取ったたくさんの想い。
「Exactly」は、その想いへの一つのこたえだったんじゃないでしょうか。

その笑顔から答え合わせをしましょう

月の光 と 消えない影

月の光が 夜に満ちているわ
なのにそっと 消えない影もできる
どうしてかな

5月の大宮からAFTツアーが始まりました。
この一年間、ゆかりんの想いを感じながらも、それぞれが日常生活の中で消えない影のように苦しい場面があったんじゃないかと思います。

寂しいのも あなたが大好きなせいよ

あなたと過ごした 思い出はどこも
読み違えたページなんかない
だって寂しいのも あなたが大好きなせいよ
他に理由はないもの

私たちはこの一年、悔しい思いや寂しさをずっとずっと募らせてきました。
それは、コロナ禍以前の楽しかった思い出たちのの裏返しであるようにも感じます。

一緒にいれば平気よ

そうなのそうでしょ 幸せになろう
もう辛い昨日は振り返らない
一緒にいれば平気よ

そうなの 二人でできることがある
声と声は響き合える
どんな涙も許し合えば いいよ

ゆかりんキングレコードからCana ariaに移籍したことで、ゆかりんの想いが率直に伝わってくるような曲が増えてきたように思います。

それでも振り返ってみれば、歌詞から伝わってくるゆかりんの想いというのは、ずっと変わっていなかったんだと気づかされます。

ずっと抱きしめたいひと
ずっと大事にするひと
幸せを わかちあえる
あなたがいるものね


私たちはたくさんの困難を乗り越えて、ゆかりんにまた逢うことができました。
残念ながら、コロナ禍にあって公演中に想いをかけ声やコールとして伝えることはできません。
それでも伝えたい。いま感じているこの楽しさを、喜びを、幸せを。

「想いよ届け!」

いつしかステージ向かって、私はそうやって声にならない声を叫ぶようになっていました。

「受け取ったから、受け取って!」

もしかしたら想いは届いているのかもしれません。
あるいは、オタク特有の早合点なのかもしれません。

でもあなたとなら確かめ合える
その笑顔から 答え合わせをしましょう


答えはきっと、笑顔のなかにこそある。

それが、ゆかりんと私たちの「あいことば。」ってことなんじゃないでしょうか。

#ゆかりとあいことば

「あいことば。」の感想ハッシュタグ、「#ゆかりとあいことば」ってなにげにすごくいいなって思うんですよね。

「ゆかり "の" あいことば」じゃなくて、「ゆかり "と" あいことば」なんですよ。

あいことば って、当たり前だけど一人じゃできないもので、必ず誰かと誰かの あいことば じゃないですか。
だからこそ、CDを聴いてもツアーの中でも、「あいことば。」から生まれる想いはどんなものでも、ゆかりんと私たちの「あいことば。」なんだと思います。


これからも、ゆかりんとたくさんの「あいことば。」を確かめ合えることを願って。

ずっと大事にするひと~AFT愛知雑感~

貴方が好きよあの日から

私にとってセンチュリーホールは始まりの場所。3階からの眺めがすべての始まりだったんだよね。
もともとTremolo Mellowの歌詞がめちゃくちゃ好きで、ライブ中は感情的にもかなりノってくるんだけど、「貴方が好きよあの日から」のところで涙がぶわっと溢れてきてしまった。

それでももう9年になるのか。あれからいくつかのツアーがあって、活動休止期間があって、そして活動再開といまのコロナ禍の中でのツアーがあって。最初の頃の盲目的なただただ好きっていうのとはちょっと感情の色が違うんだけど、それでも好きっていう気持ち、ついて行きたいっていう気持ちは変わらないな。

田村ゆかりさんのことが、ずっと大好きです。これからもついて行きたいです。

私たちの存在理由

愛知2日目のお手振りでマイクを持ったまま客席に近づいていったとき、あれどうしたんだ?って思ったけど、視覚障害のある方に声が伝わるようにしてたんだね。ゆかりんは一人一人のお客さんを見てる。心に寄り添ってるんだって思ったよね。
私は目の手術を白内障網膜剥離で計5回やってるから、なにかあったらいつか視力を失うことがあるかもしれないと考えることがあるのよね。今まで見えていた世界が見えなくなること、その先に見える世界が美しさも醜さも失ってしまうことは恐怖ではあるんだけど、それでもゆかりんは受け入れてくれる、寄り添ってくれるんだということに、一つの救いを見出したような感覚がありましたね。

そうやって、ゆかりんはファンである王国民に寄り添ってくれる。大切に思ってくれているんだなぁってあらためて感じたのでした。
この辺の話は、ゆかりんがなにを思って独立・移籍したのかについて考えた記事にもつながってくるのかなぁ。

ゆかりんが王国民を大切に思ってくれていて、私たちはゆかりんを大切に思っている。それが私たちの存在理由(レゾンデートル)なのかもね。

まわれまわれ、笑顔のプロペラ~AFT新潟雑感

6/22のいま、この記事を書いています…。
すでに記憶があやふやになりつつある。


Twitterにぽちぽち書いてたことから書き起こしていこうね。

6年越しの「約束」

公演前にレンタカー借りてたこともあって、思い立ってSsLバーチャルデートの聖地巡礼してたんですけど、MCで語られたこともあって思いもかけずに想いを巡らせることになりましたね。

SsLは、いま思い起こしても楽しい思い出ばかりでした。代々木で最後に歌った「you」、そしてMCでゆかりんが言いよどんだことをもって、SsLはいまだに映像を見られないという人も多いけど、それでも私にとってはツアーは楽しい思い出に彩られています。
私は事実関係をつないだ先に見えてくるもの以上を基本的には信じないので、あの時のゆかりんの想いというのは、わからないものはわからないとしか言えないんですよね。

だから正直に言えば、ゆかりんSsLツアー中にどれだけの苦しみを抱いていたかというのは気づけなかったです。それでも「思いどおりにならないことがたくさんある」という趣旨のことは言っていたような記憶があるんで、表面に現さない想いはきっとあったのかもしれません。

あの頃のゆかりんの考察記事を書いてますけど、そのピースがまた一つ加わったような気がします。
やっぱりゆかりんは、王国民のことをたくさん思ってくれているんだろうなぁ。
ゆかりんの思い出が更新されて、本当に良かった。

まわることにしました

「涙のち晴れマーク」の話。
ぼんやりと「まわれまわれ、笑顔のプロペラ♪」のところまわりたいなって思ってたんだけど、実際にまわるには至らなかったのね。
それでも、確かTwitterで三木みのりさんが「最後列で後ろも気にする必要がないから今回はまわることにした」っていう趣旨のことを言ってて、やっぱまわりたいなぁと思いまして。
新潟公演で決意を固めてまわることにしました。

広島公演まで終えて、まわってる人をたまに見かけるようになって、同志が増えて嬉しい限りです。

さいまえ、さいこう~AFT広島雑感

AFTツアーも1/3が終わったみたいですね。

ここまで終演後に浮かんできた言葉たちが、流れていってしまうのはもったいないなと思って少しずつだけど書き留めておきたいなと思ったり。
誰かに伝えたいというよりも、想いをここにとどめていきたい。そういうものとして綴っていこうと思います。

まあなんでこのタイミングかというと、広島で最前を引いたというのもあるけれども。

最前引きました

最前、SsL札幌「あ列」以来でしたね。
最前でスゴいなとあらためて思ったのは、「遮るものがなにもない」ということ。それはやはり2列目とは大違いで。ケセラセラもお手振りも、目の前にゆかりん来るんだもんね。

それってつまり、ゆかりんとのコミュニケーションがダイレクトに成立してしまうということ。

ライブはコミュニケーションだと思うけれど、それは基本的にゆかりんとの集団としての王国民とのコミュニケーションで、遠くにいるうちはああこの集団に属してるんだな、宇宙の塵であり、すりゴマなんだなって思うわけで、集団の一粒になれればいいと思っているわけですよ。
それが最前に来るとマンツーマンのコミュニケーションが成立しちゃう。レベルが変わってくるわけです。

想いよ伝われ…!

ケセラセラの「あなたの最後の内緒になりたい」のとこ、まあ自分のところに来てくれたら本望だけど、かなり上手よりだからここまでは来ないかなって思ってた。実際には思ったよりずっとこっちまで来てくれて、来てくれて、目線がそのまま私の右に行っちゃった。

最前を引くのも運だけど、「あなたの最後の内緒」になれるかも運だから、「それも仕方ないね、お隣さんおめでとう!」って気持ちでゆかりんを見送ったんだけど、最後のサビのところでもう一回ゆかりんが上手に来てくれたんだ。


で、もうどうしたらいいかわかんないよね。


ゆかりん歌いながらこっち見てるの。どうしたらいいかわかんないよ。
もちろんそこまで曲にノリながらリズムとってたけど、もうロボットみたいにその動き続けるしかないわけ。
いや、楽しいんだよ? ゆかりんが来てくれて嬉しいんだよ?
でも、それをどうやって伝えたらいいかわかんないから、もうとにかく「いまスゴく楽しいです!」って気持ちで最大限に動きを継続するしかないの。

この感じ、いつか前にもあったな…。そう、ハワイファンミでアコステライブ後のゆかりんとのご挨拶のときのあの感じ。早口で「Melodyすごく良かったです。ありがとうございました!」ってまくし立ててたあの感じ。
伝えたいことがたくさんありすぎて、伝えたいことが全然伝えられないんだよね。

そうやってケセラセラで目の前でゆかりんに見つめられたとき、頭の中では「いまスゴく楽しいです!この気持ち伝われ!」って叫んでた。テレパシーかよ。


でもね、そのあと「それは奇跡なんかじゃない」間奏後のいつも捧げしてるところでまたゆかりんこっちに来てくれまして。

そりゃもう足を前後にして踏ん張って、両手に全精力を込めて、どんなにどんなにどんなに愛してるかって、ゆかりんに全力捧げしました。
この想いが、感謝の気持ちが、ゆかりんに少しでも伝わっていたらいいな…。私はそれでもう満足です。


川口公演と栃木公演、どうかまた素晴らしいものになりますように。

いつかの忘れものの話をしよう

この記事は「ゆかりっくAdvent Calendar2020」の6日目の投稿です。
昨日の記事は、ツバサ・シャルロッテさんの「勝手に予想する「田村ゆかり LOVE ♡ LIVE 2020」振替公演セットリスト」でした。
セトリの構成分析、これまでもなんとなく頭の中でイメージしてたものはありますが、ツアー毎の違いを比較していくと面白いですね。来年のツアーも、Candy tuftからどういう構成になっていくのか、私も楽しみです。

お前誰よ?

だめにんげんです。

詳しくはTwitterのbioでも見てください。
ちなみに去年の「ゆかりっくAdvent Calendar2019」にも記事を投稿させていただきました。良かったらこちらもどうぞ。
tkk8637f.hatenablog.com

あなたは忘れものをしたことがありますか?

唐突ですが、あなたは忘れものをしたことがありますか?

大なり小なり忘れものをしたことはあると思います。人はなにかと忘れるものです。忘れものこそが人類共通の課題です。「あそこで忘れものしなければ…」という苦い思い出は、誰しもあるものでしょう。
これは、私が昨年のTwilight♡Chandelierツアー中に経験した、忘れものとの "たたかい" の記録です。

続きを読む

いま、ここにある未来

田村ゆかりさんがなにを目指しているのか…という話のセルフアンサー。いや、答えは彼女のみぞ知ることなので、私が問うたことへの私なりにいま感じている解ということ。


tkk8637f.hatenablog.com


Crescendo Carol のときには、「何も変えないこと」であると、それが答えであると感じていた。たどり着いた答えは、いま抱いている感情と違っているだろうか。

田村ゆかりという人はきっと、守ろうとしたのではないか。
自らが遂げたい想いを、成したい未来を、そしてゆかり王国と王国民を。

あのとき見た景色。それまでと変わることない、この世で一番愛に溢れた景色。その景色は、約3年の時を経てもなおきらめいて変わることはない。


むしろそれは、もっとハッキリとしたものになりつつある。


田村ゆかりさんの見据えた未来というのは、キングを抜けたきっとあの時から変わっていないのだと思う。しかしそれは、時を経るにしたがって、作品を経るにしたがって明らかになりつつある。Cana ariaというレーベルは、田村ゆかりさんをもって成立したレーベルである。キングレコード時代よりも、「田村ゆかりプロデュース」の作品群として、彼女の思いがストレートに曲に表現されているように見える。


そこにあるのは、「王国民とともに歩んでいく未来」であるように思う。
その想いは、きっとそれまでにもあったにせよ、作品を経る毎につよくつよく感じつつある。

世界が変わってしまうことがあっても、ときに迷うことがあっても、ともに一歩一歩進んでいく未来。
それが、彼女のいう余生なのかもしれない。

「未来の果てにEscort」するのは、「逢うたびキミを好きになる」のは誰なのか?

これは ゆかりっく Advent Calendar 2019 6日目の記事です。
ゆかりっく Advent Calendar 2019 - Adventar

Strawberry Candle」に収録のこの2曲、発売後歌詞カードを見て思い至ったことがあるんですが、なんとなく文章としてまとめずにここまで来てしまいました。ミニアルバムの中にあってアップテンポなこの2曲、ツアーではゆかりんからワイパーののポーズ指定があったり、特効テープが飛んだり、コールが入ったりしました。ゆかりんからの「また次の未来で」というメッセージに思いを至らせる人も多いのではないかと思います。
ツアーが終わり、FCイベが終わり、年末を迎える前にアドベントカレンダーとして記事を書かせてもらう機会を得たので、せっかくですし主張をポエムとしてここにまとめておきます。

自己紹介
だめにんげん@次の未来へ (@TKK8637F) | Twittertwitter.com

もくじ

松井五郎さんの作家性(つまりエモポイント)

まずはゆかりんが歌唱する松井五郎さん作詞曲のうちでもポップな曲の作詞傾向をもとに、松井五郎さんの詞のエモいとこを見ていきましょう。
ポイントになるは情景描写キミの存在です。


「未来の果てにEscort」では、キミの存在への意識が「同じ空」が違って見えるということで示唆されます。

きっとEveryday
同じ空なのに
なぜキミと
見てると違う

リアリティをもった同じ空という情景がキミと見てると違うというキミの存在への意識によって心象風景が変わっていくことが描かれる。つまりキミの存在からセカイの情景を見通すことによる変化が描かれるわけです。


この「あなた・キミ・君」への言及を通して情景が描写され、歌詞のストーリーが進行していく形式。つまりは「キミ」と「セカイ」の関係性においてストーリーを描くのは、五郎さん作詞のゆかりんのポップ曲では顕著です。


例えばGratitude。ぐらちゅ、みなさんお好きですよね? ライブ会場で、ゆかりんと我々のたくさんの「ありがとう」に満たされる、とてもステキな曲です。作詞はやはり松井五郎さん。

そうあなたに めぐり逢うまで
気づかないで いたことも多い
ねぇ おんなじ街の景色も
二人でなら 新しく見えた

ぐらちゅでキーになるのもやはり「あなた」という存在を通した心象風景。
ここではおんなじ街の景色もあなたにめぐり逢うことで二人でなら 新しく見えてくるわけです。


次に「好きだって言えなくて」の歌詞を見ていきます。

不思議なんだ なにしてても
君のことが 気にかかる
青い空に 胸の奥が
急にキュンと震えて

ほんの少し切った髪に
気づいたかな わからない
目と目が合う ラインばかり
探してる
(中略)
ひとりきりが いつのまにか
いままでよりつまらない

「好きだって言えなくて」では、なにしてても 君のことが 気にかかるという「キミ」への意識が、青い空に 胸の奥が 急にキュンと震えてという風景に心象を交えて描かれてます。そしてやっぱり同じように、ひとりきりが いつのまにか いままでよりつまらないという関係の変化が心象風景とともに語られています。


じゃあこうしたキミへの思いという心象とリアルな風景を接続する描写って、他の作詞家さんではどうなの?ってなりますよね。
実際歌詞を見てみると、例えばmarhyさんは、「あなた」とともにある日常を描くんですが、意識が「今」にとどまっていて、あまり関係の変化していくことは描かれていません。(上弦の月、つぼみのままで)
畑亜貴さんは心情描写を中心としていて情景をあまり描かないか、あくまで空想的な情景にとどまる傾向が見て取れます。(秘密の扉から会いにきてW:Wonder taleFantastic future


つまり、五郎さんの作詞のエモいとこは、「キミ」の存在を通して「セカイ」を描くことで、二人の関係性が変化していくストーリーにあるわけです。
先は長いですが、まずはここを覚えといてくださいね。


それでは、「未来の果てにEscort」では「キミ」と「セカイ」はどのように語られているのでしょうか。

未来の果てにEscortするのは誰なのか

「未来の果てにEscort」の「次の未来」を語る上では、Strawberry Candle」の発売という「今」を整理せねばなりません。

  • Strawberry Candle田村ゆかりプライベートレーベルであるCana ariaの発足後、2枚目のミニアルバムである。
  • 新レーベルの発足後フルアルバムの発売はないが、「Strawberry Candle」はツアー直前の発売であり、Twilight♡Chandelierツアーはいわゆる「アルバムツアー」であると言える。
  • このツアーは、Cana ariaの発足後、FC運営会社の移行直後、すなわち新生田村ゆかりとしての初のツアーである。

ここで整理して見えてくるのは、田村ゆかりさんの今の先にある次の未来。日本全国を千秋楽というゴールまで駆け抜けていく、なにもかもが特別になっていく、そしてゆかりんの活動はそこにとどまるものではなく、来年、再来年と続いていくのです。それは、新しいレーベルに移り、あらたなFC運営のかたちを作り、ゆかりん自らの足で歩んでいくという「次の未来」なわけです。


それでは、その夢を一緒に見るのは誰なのか。
ともに願いを叶えるのは誰なのか。


ここで、CCHでのMCを思い出していただきたい。

こんなに大きな会場に立たせてくれてありがとう。
いつもすぐふざけちゃって、なかなか思っていることが言えないんだけど、ホントにみんなが連れてきてくれた場所だからとても嬉しく思っています。

2008年の日本武道館、2011年の横浜アリーナを経て、田村ゆかりさんのライブ会場は年を経るごとに大きくなり、ついには席数で16000を超えるさいたまスーパーアリーナ公演を迎えるに至った。一歩一歩進みながら大きな会場に立つまでにたどり着いたこの歴史こそは、会場を埋める王国民とともに歩んできた時間であるという思いが、この言葉に表れているように思うんですよ。


自らの足で未来へと歩みを進めていくゆかりん。そのそばにあってEscortしていく王国民。それこそが、「未来の果てにEscort」というあり方なんだと思うのです。

アンサーとしての「逢うたびキミを好きになる」

それじゃあ「逢うたびキミを好きになる」は、どういう風に読み取ることができるのか。
ここで見ていただきたいのは2つの曲の歌詞の類似性です。この2曲はどちらも「作詞:松井五郎 作曲:板垣祐介」で作られています。2つの曲の歌詞を並べてみると、それぞれに対称性があることを見て取れるんです。


実際に歌詞を比較して見ていきます。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
キミだけのたったひとつEscort
それは奇跡だもの
いいじゃんいいじゃん 叶うよ
I Love you の Miracle

奇跡/Miracle」をキーとして、「たったひとつEscort」はすなわち「I Love you」であるという見方もできるように思います。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
いつだって胸の音がEscort
それはSignだから
いいじゃんいいじゃんわかるよ
I Love you の Signal

同様に「Sign/Signal」をキーとして、「胸の音」と「I Love you」を結びつけて読み取ることができます。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
さみしがりや(どんな時も)
知っててくれる(優しいで)
そこからすべてが変わっていく
さみしがり屋
が離せない
必ずそばにいるから 夢見ようよ

そしてここ!
ここはもう視線が交錯してるわけですよ。

誰の視線かって?
あなたにとって「目が離せない」存在は誰なの?
そりゃゆかりんでしょ!

少し取り乱してしまいました…

ここまで来ると、歌詞カード上で「未来の果てにEscort」では"I Love You"、「逢うたびキミを好きになる」では"I Love you"というように、"you"を書き分けてるのも意味があるんじゃないかと思えてくる。(英語がわかる人、なにか意味がありそうなら教えてください)
同じミニアルバムに収録された2曲の歌詞がここまで類似してるってのは、もう松井五郎さんが歌詞を寄せたってことなんだとしか思えない。そして「寄せた」からこそ、それぞれの曲の視点の違いが見えてくるわけです。

さみしがり屋で 目が離せない

その一方で

さみしがりや(どんな時も) 知っててくれる(優しい目で)


つまりは「未来の果てにEscort」と「逢うたびキミを好きになる」という曲は、

さみしがり屋で目が離せない(王国民からの目線)
さみしがりや(どんな時も)知っててくれる(優しい目で)ゆかりんからの目線)

という図式が成り立つわけです。


そう、だから「未来の果てにEscort」でゆかりんを「次の未来」に連れていくのはわれわれ王国民で、「逢うたびキミを好きになる」その「キミ」ってのはすなわちゆかりんなわけです。


そしてここでみなさんにはツアー中のことを思い出してみて欲しい。
「逢うたびゆかりを好きになる!」ってコール、めっちゃエモくなってくるでしょう?
※コールを考えてくれたはるさめさんありがとう

私は新しいコールを思いつくのは全然できないけど、それでも自分の口から叫ぶ言葉はちゃんと「意味」があるものにしたいって思ってます。
だからコールのストーリー性は大事。この内なる思いを言葉にのせて伝えたい。「逢うたびゆかりを好きになる!」って、そう伝えたい。

そうやって「百万回も言えるよ」って、証明し続けるんだよ!以上!


さてお送りしてきた ゆかりっく Advent Calendar 2019 6日目。
次回の7日目は児玉裕さんとなります。フラスタがテーマとのことですが、いつも会場に飾られる、みなさんの気合いの入ったフラスタにはアツい愛情を感じますね。記事を楽しみにしています。
ちなみに前日のベンチネンタルことかんちゃんさんの記事はこちら。
hizaitai125.hatenablog.com


それではアデュ~!

田村ゆかりを語るには教養が足りない

「歴史は雑学」と言い切ってしまうのは、その人自身にとって悲劇だと思う。

 

私自身は、田村ゆかりさんのライブに参加して7年になる。初回でファンクラブに入会したので、ファン歴としても同様だ。

往年のファンとは積み重ねが違う。ふぁーすとらいぶにせよ、初武道館のChelsea Girlにせよ、プリアラにせよ、実際にその場にいた人は、見てきた景色が違う。それは当然のこととして致し方ないことではある。しかしそれでも、「あのときゆかりんはこうでさ~」みたいな語りを聞くと、(当人は悪気はないんだろうが)忸怩たる思いなのである。まあ悔しい…というよりは、そういう光景を経ていることで、自分が見ているものとはまた違う景色があるのだろうなと思うと、素直にうらやましい。

アイドル史の中で、サブカル史の中での「田村ゆかり」という存在を、もっと語ってみたいと思う。しかし教養が足りない。80年代、90年代を見てきたアイドルオタクとは、積み重ねが違う。80年代アイドルの系譜とか、文脈とか、そういった語りをできる人とは、やはり見えているものが違うんだろうか。

しかしまあ、そんなものうらやんでも仕方ないんだな。

私がいま見ている景色は、私だけのものであって、私が抱いているこの感情も、他でもない私だけのものなんだ。だからこそ、私だけが紡ぐことができる言葉があるんじゃないかと思うんだよね。

深夜の馬鹿力始まっちゃったんで、そんな感じです。

T♡Cツアーファイナル1週間後の雑感

これは雑感である。ゆえに結論めいたものはない。
15分で書いた。

「神楽坂ゆか」の存在、ゆかりっくFesという「祭り」、あるいは過去にはクルピヨンであるとか、メタウサもそのようなものだったかもしれない。田村ゆかりさんには、これまで何度も私たちの想像も及ばないようなものを見せてもらってきて、その驚きというのが、声優として、歌手として、アイドルとして、つまりはパフォーマー田村ゆかりという存在を唯一無二たらしめ、その世界観を特徴づける一つだったように思う。
それはあくまで田村ゆかりさんの魅力としては付随的なものであって、そのあり方の如何が彼女の評価を毀損するものではない。
彼女の魅力の本質は、その「歌声」と「女の子らしさ」であって、例えば「露悪的な振る舞い(やさぐれ)」であるとか、今に至る「ストーリー」といったところは、付随的なものに過ぎない。もちろん、付随的なものも含めての「魅力」である。

私はいまもって告白するが、田村ゆかりさんに期待してしまっている。「次の未来」が驚きとともにやってくるということを期待してしまっている。
そしてその期待というのはなんだか、失礼な態度であるように思える。それはなぜか。

その期待は、彼女の魅力の本質と離れたところにある。ということかもしれない。それはあくまで「崩し」を期待するものであるから。
あるいは、彼女の行動を束縛するものであるかもしれない。その思いは「成したいことを成してほしい」という思いとは相反するものであるかもしれない。

この話に結論はない。ただ、思いが行くあてもなく、さまよっているという話。