このあとスタッフがおいしくいただきました

だめにんげんさんの墓標です。

さいまえ、さいこう~AFT広島雑感

AFTツアーも1/3が終わったみたいですね。

ここまで終演後に浮かんできた言葉たちが、流れていってしまうのはもったいないなと思って少しずつだけど書き留めておきたいなと思ったり。
誰かに伝えたいというよりも、想いをここにとどめていきたい。そういうものとして綴っていこうと思います。

まあなんでこのタイミングかというと、広島で最前を引いたというのもあるけれども。

最前引きました

最前、SsL札幌「あ列」以来でしたね。
最前でスゴいなとあらためて思ったのは、「遮るものがなにもない」ということ。それはやはり2列目とは大違いで。ケセラセラもお手振りも、目の前にゆかりん来るんだもんね。

それってつまり、ゆかりんとのコミュニケーションがダイレクトに成立してしまうということ。

ライブはコミュニケーションだと思うけれど、それは基本的にゆかりんとの集団としての王国民とのコミュニケーションで、遠くにいるうちはああこの集団に属してるんだな、宇宙の塵であり、すりゴマなんだなって思うわけで、集団の一粒になれればいいと思っているわけですよ。
それが最前に来るとマンツーマンのコミュニケーションが成立しちゃう。レベルが変わってくるわけです。

想いよ伝われ…!

ケセラセラの「あなたの最後の内緒になりたい」のとこ、まあ自分のところに来てくれたら本望だけど、かなり上手よりだからここまでは来ないかなって思ってた。実際には思ったよりずっとこっちまで来てくれて、来てくれて、目線がそのまま私の右に行っちゃった。

最前を引くのも運だけど、「あなたの最後の内緒」になれるかも運だから、「それも仕方ないね、お隣さんおめでとう!」って気持ちでゆかりんを見送ったんだけど、最後のサビのところでもう一回ゆかりんが上手に来てくれたんだ。


で、もうどうしたらいいかわかんないよね。


ゆかりん歌いながらこっち見てるの。どうしたらいいかわかんないよ。
もちろんそこまで曲にノリながらリズムとってたけど、もうロボットみたいにその動き続けるしかないわけ。
いや、楽しいんだよ? ゆかりんが来てくれて嬉しいんだよ?
でも、それをどうやって伝えたらいいかわかんないから、もうとにかく「いまスゴく楽しいです!」って気持ちで最大限に動きを継続するしかないの。

この感じ、いつか前にもあったな…。そう、ハワイファンミでアコステライブ後のゆかりんとのご挨拶のときのあの感じ。早口で「Melodyすごく良かったです。ありがとうございました!」ってまくし立ててたあの感じ。
伝えたいことがたくさんありすぎて、伝えたいことが全然伝えられないんだよね。

そうやってケセラセラで目の前でゆかりんに見つめられたとき、頭の中では「いまスゴく楽しいです!この気持ち伝われ!」って叫んでた。テレパシーかよ。


でもね、そのあと「それは奇跡なんかじゃない」間奏後のいつも捧げしてるところでまたゆかりんこっちに来てくれまして。

そりゃもう足を前後にして踏ん張って、両手に全精力を込めて、どんなにどんなにどんなに愛してるかって、ゆかりんに全力捧げしました。
この想いが、感謝の気持ちが、ゆかりんに少しでも伝わっていたらいいな…。私はそれでもう満足です。


川口公演と栃木公演、どうかまた素晴らしいものになりますように。

いつかの忘れものの話をしよう

この記事は「ゆかりっくAdvent Calendar2020」の6日目の投稿です。
昨日の記事は、ツバサ・シャルロッテさんの「勝手に予想する「田村ゆかり LOVE ♡ LIVE 2020」振替公演セットリスト」でした。
セトリの構成分析、これまでもなんとなく頭の中でイメージしてたものはありますが、ツアー毎の違いを比較していくと面白いですね。来年のツアーも、Candy tuftからどういう構成になっていくのか、私も楽しみです。

お前誰よ?

だめにんげんです。

詳しくはTwitterのbioでも見てください。
ちなみに去年の「ゆかりっくAdvent Calendar2019」にも記事を投稿させていただきました。良かったらこちらもどうぞ。
tkk8637f.hatenablog.com

あなたは忘れものをしたことがありますか?

唐突ですが、あなたは忘れものをしたことがありますか?

大なり小なり忘れものをしたことはあると思います。人はなにかと忘れるものです。忘れものこそが人類共通の課題です。「あそこで忘れものしなければ…」という苦い思い出は、誰しもあるものでしょう。
これは、私が昨年のTwilight♡Chandelierツアー中に経験した、忘れものとの "たたかい" の記録です。

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いま、ここにある未来

田村ゆかりさんがなにを目指しているのか…という話のセルフアンサー。いや、答えは彼女のみぞ知ることなので、私が問うたことへの私なりにいま感じている解ということ。


tkk8637f.hatenablog.com


Crescendo Carol のときには、「何も変えないこと」であると、それが答えであると感じていた。たどり着いた答えは、いま抱いている感情と違っているだろうか。

田村ゆかりという人はきっと、守ろうとしたのではないか。
自らが遂げたい想いを、成したい未来を、そしてゆかり王国と王国民を。

あのとき見た景色。それまでと変わることない、この世で一番愛に溢れた景色。その景色は、約3年の時を経てもなおきらめいて変わることはない。


むしろそれは、もっとハッキリとしたものになりつつある。


田村ゆかりさんの見据えた未来というのは、キングを抜けたきっとあの時から変わっていないのだと思う。しかしそれは、時を経るにしたがって、作品を経るにしたがって明らかになりつつある。Cana ariaというレーベルは、田村ゆかりさんをもって成立したレーベルである。キングレコード時代よりも、「田村ゆかりプロデュース」の作品群として、彼女の思いがストレートに曲に表現されているように見える。


そこにあるのは、「王国民とともに歩んでいく未来」であるように思う。
その想いは、きっとそれまでにもあったにせよ、作品を経る毎につよくつよく感じつつある。

世界が変わってしまうことがあっても、ときに迷うことがあっても、ともに一歩一歩進んでいく未来。
それが、彼女のいう余生なのかもしれない。

「未来の果てにEscort」するのは、「逢うたびキミを好きになる」のは誰なのか?

これは ゆかりっく Advent Calendar 2019 6日目の記事です。
ゆかりっく Advent Calendar 2019 - Adventar

Strawberry Candle」に収録のこの2曲、発売後歌詞カードを見て思い至ったことがあるんですが、なんとなく文章としてまとめずにここまで来てしまいました。ミニアルバムの中にあってアップテンポなこの2曲、ツアーではゆかりんからワイパーののポーズ指定があったり、特効テープが飛んだり、コールが入ったりしました。ゆかりんからの「また次の未来で」というメッセージに思いを至らせる人も多いのではないかと思います。
ツアーが終わり、FCイベが終わり、年末を迎える前にアドベントカレンダーとして記事を書かせてもらう機会を得たので、せっかくですし主張をポエムとしてここにまとめておきます。

自己紹介
だめにんげん@次の未来へ (@TKK8637F) | Twittertwitter.com

もくじ

松井五郎さんの作家性(つまりエモポイント)

まずはゆかりんが歌唱する松井五郎さん作詞曲のうちでもポップな曲の作詞傾向をもとに、松井五郎さんの詞のエモいとこを見ていきましょう。
ポイントになるは情景描写キミの存在です。


「未来の果てにEscort」では、キミの存在への意識が「同じ空」が違って見えるということで示唆されます。

きっとEveryday
同じ空なのに
なぜキミと
見てると違う

リアリティをもった同じ空という情景がキミと見てると違うというキミの存在への意識によって心象風景が変わっていくことが描かれる。つまりキミの存在からセカイの情景を見通すことによる変化が描かれるわけです。


この「あなた・キミ・君」への言及を通して情景が描写され、歌詞のストーリーが進行していく形式。つまりは「キミ」と「セカイ」の関係性においてストーリーを描くのは、五郎さん作詞のゆかりんのポップ曲では顕著です。


例えばGratitude。ぐらちゅ、みなさんお好きですよね? ライブ会場で、ゆかりんと我々のたくさんの「ありがとう」に満たされる、とてもステキな曲です。作詞はやはり松井五郎さん。

そうあなたに めぐり逢うまで
気づかないで いたことも多い
ねぇ おんなじ街の景色も
二人でなら 新しく見えた

ぐらちゅでキーになるのもやはり「あなた」という存在を通した心象風景。
ここではおんなじ街の景色もあなたにめぐり逢うことで二人でなら 新しく見えてくるわけです。


次に「好きだって言えなくて」の歌詞を見ていきます。

不思議なんだ なにしてても
君のことが 気にかかる
青い空に 胸の奥が
急にキュンと震えて

ほんの少し切った髪に
気づいたかな わからない
目と目が合う ラインばかり
探してる
(中略)
ひとりきりが いつのまにか
いままでよりつまらない

「好きだって言えなくて」では、なにしてても 君のことが 気にかかるという「キミ」への意識が、青い空に 胸の奥が 急にキュンと震えてという風景に心象を交えて描かれてます。そしてやっぱり同じように、ひとりきりが いつのまにか いままでよりつまらないという関係の変化が心象風景とともに語られています。


じゃあこうしたキミへの思いという心象とリアルな風景を接続する描写って、他の作詞家さんではどうなの?ってなりますよね。
実際歌詞を見てみると、例えばmarhyさんは、「あなた」とともにある日常を描くんですが、意識が「今」にとどまっていて、あまり関係の変化していくことは描かれていません。(上弦の月、つぼみのままで)
畑亜貴さんは心情描写を中心としていて情景をあまり描かないか、あくまで空想的な情景にとどまる傾向が見て取れます。(秘密の扉から会いにきてW:Wonder taleFantastic future


つまり、五郎さんの作詞のエモいとこは、「キミ」の存在を通して「セカイ」を描くことで、二人の関係性が変化していくストーリーにあるわけです。
先は長いですが、まずはここを覚えといてくださいね。


それでは、「未来の果てにEscort」では「キミ」と「セカイ」はどのように語られているのでしょうか。

未来の果てにEscortするのは誰なのか

「未来の果てにEscort」の「次の未来」を語る上では、Strawberry Candle」の発売という「今」を整理せねばなりません。

  • Strawberry Candle田村ゆかりプライベートレーベルであるCana ariaの発足後、2枚目のミニアルバムである。
  • 新レーベルの発足後フルアルバムの発売はないが、「Strawberry Candle」はツアー直前の発売であり、Twilight♡Chandelierツアーはいわゆる「アルバムツアー」であると言える。
  • このツアーは、Cana ariaの発足後、FC運営会社の移行直後、すなわち新生田村ゆかりとしての初のツアーである。

ここで整理して見えてくるのは、田村ゆかりさんの今の先にある次の未来。日本全国を千秋楽というゴールまで駆け抜けていく、なにもかもが特別になっていく、そしてゆかりんの活動はそこにとどまるものではなく、来年、再来年と続いていくのです。それは、新しいレーベルに移り、あらたなFC運営のかたちを作り、ゆかりん自らの足で歩んでいくという「次の未来」なわけです。


それでは、その夢を一緒に見るのは誰なのか。
ともに願いを叶えるのは誰なのか。


ここで、CCHでのMCを思い出していただきたい。

こんなに大きな会場に立たせてくれてありがとう。
いつもすぐふざけちゃって、なかなか思っていることが言えないんだけど、ホントにみんなが連れてきてくれた場所だからとても嬉しく思っています。

2008年の日本武道館、2011年の横浜アリーナを経て、田村ゆかりさんのライブ会場は年を経るごとに大きくなり、ついには席数で16000を超えるさいたまスーパーアリーナ公演を迎えるに至った。一歩一歩進みながら大きな会場に立つまでにたどり着いたこの歴史こそは、会場を埋める王国民とともに歩んできた時間であるという思いが、この言葉に表れているように思うんですよ。


自らの足で未来へと歩みを進めていくゆかりん。そのそばにあってEscortしていく王国民。それこそが、「未来の果てにEscort」というあり方なんだと思うのです。

アンサーとしての「逢うたびキミを好きになる」

それじゃあ「逢うたびキミを好きになる」は、どういう風に読み取ることができるのか。
ここで見ていただきたいのは2つの曲の歌詞の類似性です。この2曲はどちらも「作詞:松井五郎 作曲:板垣祐介」で作られています。2つの曲の歌詞を並べてみると、それぞれに対称性があることを見て取れるんです。


実際に歌詞を比較して見ていきます。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
キミだけのたったひとつEscort
それは奇跡だもの
いいじゃんいいじゃん 叶うよ
I Love you の Miracle

奇跡/Miracle」をキーとして、「たったひとつEscort」はすなわち「I Love you」であるという見方もできるように思います。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
いつだって胸の音がEscort
それはSignだから
いいじゃんいいじゃんわかるよ
I Love you の Signal

同様に「Sign/Signal」をキーとして、「胸の音」と「I Love you」を結びつけて読み取ることができます。

未来の果てにEscort 逢うたびキミを好きになる
さみしがりや(どんな時も)
知っててくれる(優しいで)
そこからすべてが変わっていく
さみしがり屋
が離せない
必ずそばにいるから 夢見ようよ

そしてここ!
ここはもう視線が交錯してるわけですよ。

誰の視線かって?
あなたにとって「目が離せない」存在は誰なの?
そりゃゆかりんでしょ!

少し取り乱してしまいました…

ここまで来ると、歌詞カード上で「未来の果てにEscort」では"I Love You"、「逢うたびキミを好きになる」では"I Love you"というように、"you"を書き分けてるのも意味があるんじゃないかと思えてくる。(英語がわかる人、なにか意味がありそうなら教えてください)
同じミニアルバムに収録された2曲の歌詞がここまで類似してるってのは、もう松井五郎さんが歌詞を寄せたってことなんだとしか思えない。そして「寄せた」からこそ、それぞれの曲の視点の違いが見えてくるわけです。

さみしがり屋で 目が離せない

その一方で

さみしがりや(どんな時も) 知っててくれる(優しい目で)


つまりは「未来の果てにEscort」と「逢うたびキミを好きになる」という曲は、

さみしがり屋で目が離せない(王国民からの目線)
さみしがりや(どんな時も)知っててくれる(優しい目で)ゆかりんからの目線)

という図式が成り立つわけです。


そう、だから「未来の果てにEscort」でゆかりんを「次の未来」に連れていくのはわれわれ王国民で、「逢うたびキミを好きになる」その「キミ」ってのはすなわちゆかりんなわけです。


そしてここでみなさんにはツアー中のことを思い出してみて欲しい。
「逢うたびゆかりを好きになる!」ってコール、めっちゃエモくなってくるでしょう?
※コールを考えてくれたはるさめさんありがとう

私は新しいコールを思いつくのは全然できないけど、それでも自分の口から叫ぶ言葉はちゃんと「意味」があるものにしたいって思ってます。
だからコールのストーリー性は大事。この内なる思いを言葉にのせて伝えたい。「逢うたびゆかりを好きになる!」って、そう伝えたい。

そうやって「百万回も言えるよ」って、証明し続けるんだよ!以上!


さてお送りしてきた ゆかりっく Advent Calendar 2019 6日目。
次回の7日目は児玉裕さんとなります。フラスタがテーマとのことですが、いつも会場に飾られる、みなさんの気合いの入ったフラスタにはアツい愛情を感じますね。記事を楽しみにしています。
ちなみに前日のベンチネンタルことかんちゃんさんの記事はこちら。
hizaitai125.hatenablog.com


それではアデュ~!

田村ゆかりを語るには教養が足りない

「歴史は雑学」と言い切ってしまうのは、その人自身にとって悲劇だと思う。

 

私自身は、田村ゆかりさんのライブに参加して7年になる。初回でファンクラブに入会したので、ファン歴としても同様だ。

往年のファンとは積み重ねが違う。ふぁーすとらいぶにせよ、初武道館のChelsea Girlにせよ、プリアラにせよ、実際にその場にいた人は、見てきた景色が違う。それは当然のこととして致し方ないことではある。しかしそれでも、「あのときゆかりんはこうでさ~」みたいな語りを聞くと、(当人は悪気はないんだろうが)忸怩たる思いなのである。まあ悔しい…というよりは、そういう光景を経ていることで、自分が見ているものとはまた違う景色があるのだろうなと思うと、素直にうらやましい。

アイドル史の中で、サブカル史の中での「田村ゆかり」という存在を、もっと語ってみたいと思う。しかし教養が足りない。80年代、90年代を見てきたアイドルオタクとは、積み重ねが違う。80年代アイドルの系譜とか、文脈とか、そういった語りをできる人とは、やはり見えているものが違うんだろうか。

しかしまあ、そんなものうらやんでも仕方ないんだな。

私がいま見ている景色は、私だけのものであって、私が抱いているこの感情も、他でもない私だけのものなんだ。だからこそ、私だけが紡ぐことができる言葉があるんじゃないかと思うんだよね。

深夜の馬鹿力始まっちゃったんで、そんな感じです。

T♡Cツアーファイナル1週間後の雑感

これは雑感である。ゆえに結論めいたものはない。
15分で書いた。

「神楽坂ゆか」の存在、ゆかりっくFesという「祭り」、あるいは過去にはクルピヨンであるとか、メタウサもそのようなものだったかもしれない。田村ゆかりさんには、これまで何度も私たちの想像も及ばないようなものを見せてもらってきて、その驚きというのが、声優として、歌手として、アイドルとして、つまりはパフォーマー田村ゆかりという存在を唯一無二たらしめ、その世界観を特徴づける一つだったように思う。
それはあくまで田村ゆかりさんの魅力としては付随的なものであって、そのあり方の如何が彼女の評価を毀損するものではない。
彼女の魅力の本質は、その「歌声」と「女の子らしさ」であって、例えば「露悪的な振る舞い(やさぐれ)」であるとか、今に至る「ストーリー」といったところは、付随的なものに過ぎない。もちろん、付随的なものも含めての「魅力」である。

私はいまもって告白するが、田村ゆかりさんに期待してしまっている。「次の未来」が驚きとともにやってくるということを期待してしまっている。
そしてその期待というのはなんだか、失礼な態度であるように思える。それはなぜか。

その期待は、彼女の魅力の本質と離れたところにある。ということかもしれない。それはあくまで「崩し」を期待するものであるから。
あるいは、彼女の行動を束縛するものであるかもしれない。その思いは「成したいことを成してほしい」という思いとは相反するものであるかもしれない。

この話に結論はない。ただ、思いが行くあてもなく、さまよっているという話。

推しがこの世を去るとき

神田松之丞がゲストの『伊集院光とらじおと』。「深夜ラジオ辞める」みたいな話が出たって聞いてずっと聴くのが怖いなと思ってたけど、実際聴いてみたら伊集院のラジオと落語に対するスタンスのマジな話が出てきてて、一瞬たりとも聞き逃せねぇよって感じだった。

 

奇しくもゆかりんが、永遠のひとつの発売を前にナタリーのインタビュー中で「辞める」ということについて語っている。

ただ……今でも「辞めてもいいかな」という気持ちはわりとありますね(笑)。好きなことができなくなったらやる意味もないと思うので、誰かに強制されるような状態になったらあっさり辞めると思います。

田村ゆかり「永遠のひとつ」インタビュー|今の自分に合った歌を - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

どちらも、自分のスタイルというものを持ち続けていて、それを維持できなくなるのであれば辞めてしまってもいい…というようなスタンスだ。

伊集院もゆかりんも、そうやって自分のスタイルを貫き通そうとしているから、ファンに対して誠実であろうとしているからこそ、そのあり方に共感し、その姿に憧れ、その進む先を見つめていたいと感じるのだ。

 

彼も、彼女も人の子で、いつかきっと我々の前を去って行く日が来るのだと思う。

 

伊集院はデブをこじらせて死ぬかもしれない。

この前にフォロワーさんの敬愛する噺家さんが亡くなったとき、伊集院が死んだら自分はどんな風に受け止めるだろう…?と考えることがあった。訃報に触れたとき、きっと自分は受け入れられないだろうと思う。月曜日になれば、またくだらないフリートークが聴けるはずだと信じて疑わないだろうと思う。それでもいても立ってもいられず、月曜日25時には赤坂に向かうだろうと思う。ラジオリスナーの流儀にしたがって。

 

ゆかりんが死ぬのはちょっと考えられないなぁ…。それでも結婚とかして引退するのだとしたら、そうでなくても自らの決断によって去って行くのだとしたら、温かく迎えてあげたいなと思う。ゆかりんの進む先は、晴れやかであってほしい。

 

どんな別れであっても、「らしく」あって欲しい。ただただそう願う。

サッカーの戦術はどうやって勉強したらいいのかね

GKってポジション自体が好きになりかけてる。けどそれって、戦術への理解が足りないから分かりの良いGKに魅力を感じてるだけなのかなぁって気もする。

サッカーについて真面目に勉強したいんだけど、どうやってくのがいいのかわかんないんだよなぁ。ホントは1つの試合について、全体の戦術を元にしてシチュエーションごとに解説してもらうのがいいと思うんだけど、DAZNのサッカー解説なんかそこまで細かく語ってくんないからなぁ。
というか、サッカーの解説って実況の補足説明くらいにしかなってない気がしてなぁ。

 

野球が一球ごとの静的なシチュエーションの繰り返しなのに対して、サッカーはシチュエーションが常に動的に変化するので、リアルタイムで説明しづらいし、状況を切り出しにくいという難しさがあるなぁとは思う。

シチュエーションベースでの解説ってのもそうだけど、もっとサッカーの基本的なことから勉強したいんだよなぁ。
つまり野球の場合は「ホームベースを踏む」ということが最終的な到達点であって、その前段階としていかに出塁し進塁するか、いかにバッティングするか、いかに配球を読むかっていう過程が理解できているんだけど、サッカーの場合はゴールに向かっていく前段階がよくわからない。まあボールを奪って前に進むってことくらいはわかるけど。

 

戦術とかの本を読めばいいのかな?

野球の戦術はパワプロで学んだみたいなところがあるけど、サッカーのゲームってそういう戦術を学ぶのに適してるのかな?

想いを、一枚に

自分らしい写真、これが私の写真、というものはなんだろうとか、仕事しながら考えてた。
最近、夜景撮りや星撮りなんか頻繁に出かけてるけど、あんなのは自分らしい写真だとは全然思っていなくて、ただ遠くに出かけたいっていう欲求に写真を撮るっていう実利をくっつけただけなので、写真を撮ることそのものの楽しさからはちょっと離れてる気がする。

写真の面白さって、撮影時に運の要素と技術や知識の要素が良い塩梅で混じり合って、一つの作品を作り出すところにあると思う。
天気が、街を歩く人の流れが、偶然のひらめきが、あるいは光量から導かれるカメラ設定が、培われた画角感によるレンズ選びが、そしてシャッターを切る瞬間にかける想いが、一瞬のきらめきを捉えるそういうものだと思う。

技術や知識は、努力によってある程度の領域まで達するけど、それだけじゃない。それが写真の面白さ。

 

閑話休題
写真を現像するときのテクニックとして、大きい写真から切り出す「トリミング」ってのがあるけど、どうにも自分はこれを好きになれない。
「あとでトリミングすればいい」という感覚は、その一瞬に向き合う情熱や覚悟をないがしろにしている。

大事なのは、被写体に向き合って、ベストな構図を引き当てる。俗っぽく言えば、「構図をこねくり回す」ということだと思う。

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構図をこねくり回すこと。
そして物言わぬ被写体が命を持ったかのようにかわいらしく、輝いて見える構図を探す。
それが私の写真。他の誰のものでもない一枚。

田村ゆかりという人が何をしたいのか、ずっとわからないでいた

SsLツアーが終わり、見事に落選したFCイベを経て、冬ライブという単語がいつの間にか宙に浮いてしまっていたあの頃。

公式HPの「重要なお知らせ」とやらに並ぶ文字列には、「ライブ中止→なんで?」「黒うさぎ終了→なんで?」「キングの専属契約終了→なんで?」という思いが奔流のように巡り、ただ「支えていきたい」という気持ちが、海岸で干上がった海藻のように、あるいは天ぷらの残りカスのように、最後に頭の中でうち捨てられるばかりだった。

2016.02.13
いつも支えてくれている皆さんへ。
突然の発表で驚かせてしまってごめんなさい。
そして、心配してくれてありがとうございます。
見るの怖いなぁ・・って思いながらも、ツイッターなど見させていただいています。

これは私が自分らしくあるために、たくさん悩んで、いっぱい考えて出した答えです。

ここで、新しい場所をお知らせ出来れば、
みなさんに安心していただけるのだと思います。
ですが、まだお知らせできない私のふがいなさを許して下さい。

いま思えば、これほどファンへの愛にあふれた言葉はない。「驚かせてしまったけど安心して欲しい」という率直な想いが伝わってくる。

そうした言葉を受け止めるには、きっと私の度量が足りなかった。

 

その年のFCイベント、ゆかりんの口から移籍については何も語られることがなかった。FCイベにライブパートがないことなど些末なことである。

けれども、移籍に関して何も触れられることがなかったことには落胆したし、憤ってもいた。

https://twitter.com/TKK8637F/status/801428446333145088https://t

 

witter.com/TKK8637F/status/801428446333145088私は、FFC大阪で、「事件」のあと"W:Wonder tale"の曲終わりにゆかりんがマイクを通さず届けたあの言葉を、2階最後列にも確かに届いたあの言葉を、信じられなくなっていた。

 

明けて2017年の4月1日、TLが喜びに満ちていた。

私は喜びと安堵ともに、自分の度量の小ささ、浅薄さををあらためて思い知ることになる。その一方で、これですべてが良い方向に向かう。そういう確信があった。

 

それでは、そうであるなら、王国民にとっての一連の「混乱」と「動揺」なんだっただろうか。

復帰直後のFCイベは落選した。それ自体はもう、どうでもよい。

問題は、あのとき抱いた悲しみを、涙を、不安を、怒りを、どうにも腹に据えかねていたことだった。

そうして2017年9月26日、Crescendo Carol初日を迎えることになる。

 

終わってみれば、ゆかり王国は何も変わっていなかった。

そこには、ステージ上できらびやかに輝くゆかりんと、ゆかりんに満身創痍で愛をむける王国民の姿があった。

1年以上の休眠期間を経て、いま再び、キングレコードを離脱してまで田村ゆかりという人が成し遂げようとしたことに思いを巡らせるならば、それはなんであるか。

 

それはきっと、「何も変えないこと」であったと思う。

キングレコードは一連の騒動の後、スタチャ消滅とともに、小松未可子を切り、喜多村英梨を切り、ゆいかおりを切った。その当時、ゆかりんの活動に何らかの方針変更が打診されたであろうことは想像に難くない。状況をみれば、ネガティブなものであったのだろう。

 

田村ゆかりという人はきっと、守ろうとしたのではないか。

自らが遂げたい想いを、成したい未来を、そしてゆかり王国と王国民を。

 

本当のことは何もわからない。

これからも、ありのままが語られることなど、ないのだと思う。

それでもなお、田村ゆかりという人が抱く想いに添い遂げ、歩むその先を見ていきたい。

 

支える、とは、そういうことなのだと思うから。

 

Crescendo Carolの後、なんとなく考えてたことをようやく文章にした。いや、本当はYahooメールの下書きでメモってたんだけど全部消えた。Yahooメール絶対ゆるさんわ。まだ普通に使ってるけど。